研究発表 『みなとみらい21開発の経緯』 (田口俊夫・NPO法人副理事長)

 田口でございます。今日こういう機会を頂戴いたしまいて誠にありがとうございます。私がここ一年半ぐらい時間をかけまして、みなとみらいの開発の経緯を調べてまいりました。それについてお話しをさせていただきます。

 みなさまのお手元に、この論文の冊子がございます。100数十ページぐらいあると思いますが、前半のほうに日本語、後半に概要版の英文を載せてございます。これは最初、我々の研究会の理事長が申し上げましたように、田村明の業績を世界に広く発信していくことを想定しておりますので、試しにこの論文の概要を英訳しました。では、始めさせていただきます。

 今日は本当にありがとうございます。私からまずお話しさせていただきますのは、みなとみらい21開発の50年間の経緯を実証的な資料を収集し、それらをみなさんに見ていただけるように公開できる形にして、それを経年的、時間的にどういうふうな展開があったかということを、紐解いていこうということで始めました。50年間、単純に言いますと、40万時間でございますね。40万時間を1時間、今司会からもっと短くせよということですから、仮に40分ぐらいでやるのは大変短い、これはほとんど不可能に近いですね。ただそうはいっても今日お時間を頂戴していますので、お話しさせていただきます。わたくしの話で抜け落ちている部分が相当出てくると思います。そこはこの冊子をお持ち帰りいただいて、これをお読みいただくと、よりお分かりいただけるような内容にはなっているかと思います。

 ここに、見慣れたみなとみらい21の景観がございます。このみなとみらい21の研究をなぜ始めたのかということですが、これは単純な話でして、自分が知らないからです。役人をやっていた人間が分からない。いやそんなことはないだろう、学ぶ資料は沢山ある。田村明なるものはたくさん著作物を残したし、いろんな講演もしたし、いろんなところで資料が残っているじゃないか。みなさんそう思われるかと思いますが、実は分からないのです。確かに田村さんが書かれた本はたくさんあります。講演もたくさんやられました。ただ、それを裏付ける、いわゆる客観的な資料が積みあがっていないのです。それで、田村さんはこう言われたのだから、まあ田村さんがそう言ったのだからそうなのだろうなと思ってしまうのですが、我々としては実際どうだったのだろうということを知りたい、というふうに思いました。

 こういう私も、今63歳になりましたが、25歳のときに横浜市に入りました。一瞬ですが、みなとみらい21の計画も担当いたしました。ただ、最初はアーバンデザインという都市デザインをやっていました。そういう人間にとっても、実はみなとみらい21というのはよく分からないのです。まちができていくのはよく分かりますね。色んな道路、埋め立てがされて、色んなふうにどんどんみなとみらい21が出来ているのは、分かります。だけど実際にはどういう風にこれが始まったのかは意外と分からないのです。

それとみなとみらい21の計画の綺麗なパンフレットがたくさん出ておりますが、その中では、飛鳥田市長と田村さんがおやりになった時代のことは、残念ながらほとんど触れられていない。そのようなこともありまして、我々は学びたいと、学び直したいということで始めております。

 みなとみらい21の目的は何なのかと考えてみると、これは皆さんもご存知のように、横浜の都心をつくることです。横浜の都心は、実はここ関内だったのです。開港当時はここです。それから、鉄道がどんどん発達するにしたがって横浜駅の周辺。厳密にいえば横浜駅というのは何回か移っているわけです。今の横浜駅です。だからその2つの大きなまちがあった。ただその間に、このみなとみらい21のお隣に、三菱重工の横浜造船所というのがあったわけです。その三菱造船所に動いていただく。つまり、移転してもらう。自発的に動いたか、受動的に動いたかという議論はこの報告書の中にありますが、動いていただいた。田村さんに言わせれば動かしたということですね。動いていただいて、そのあとにみなとみらい21の開発ができて、その3つの都心が一体になるということが、このみなとみらい21プロジェクトの大きな目的であったわけです。では、その三位一体と書いてありますが、その3つの地区が一体に今本当になっているのかどうかというのが問われると思います。

 だんだん時間がなくなりつつあります。まだ計画時の1年も経ってないですね。人的継承というところに行きます。飛鳥田市長と田村明、田村明さんは企画調整局長、最初の企画調整室長です。もっとも最初は、その室の担当部長ですが。その後、細郷道一市長、それを支え、みなとみらい21を色々プロデュースした小澤恵一さん、今はもう亡くなられておられます。そのあと細郷市長のときにもおやりになったのですが、廣瀬良一さん。今日あとでスピーカーとして登壇されますが、高秀市長の時代、廣瀬良一さんが中核的なお立場でみなとみらい21を推進されています。

 こういう人的な流れがあったというのをお考えください。そして、みなとみらい研究の一番の目的は、わたくしが最初申し上げたように、わからなかったから始めた。じゃあ今わかっているのかと言われると、うーん少しわかったと。50年間の流れが少しわかったということです。我々が発掘した資料はすべて公開します。公開するというのが大前提です。なぜ公開するのかというのは、色んな方に見てほしいからです。我々だけがその資料を私蔵することはしません。色んな方に見ていただく、そして色んな方にまたみなとみらいの研究をしてほしい。つまり、私が今日この場で偉そうに話させていただいておりますが、まだ、やっと50年間の流れがわかったということだけです。だからみなさんにはさらにそれを深堀りしてほしい。なんだ、おまえはもう研究もうやめるのかとなりますが、いや私はやめませんが、色んな方にやってほしいということです。だから公開していきます。つまり公開できない資料は、この中では研究に使いません。

 ある方がこういうこと言ったのだけど、どうもその裏にはこういう話があるらしいよ、という話は使いません。噂話は使いません。それを実証できる資料がない限り、研究としては使いません。そして、この研究の最終の目的は、では、田村明なるものは、本当にみなとみらい21をどこまで何をやったのかということを明らかにしようとしています。田村さんは昭和43年4月横浜市に入ります。そして昭和53年の3月、田村さんがお辞めになったわけじゃありませんが、3月で市長が代わっています。飛鳥田さんから細郷さんに代わっています。選挙がありまして、4月から市長が変わりました。私が横浜市に入った時はまだ細郷さんが市長に就任する前でしたので、市長代理から我々は辞令をもらっている、私はそういう時代の人間です。その時に、実はこの論文の中に書いてありますが、田村さんは実質、ちょっと言葉を相当選ばないといけませんが、企画調整局長から降りました。そして、兼務していた技監のみとなります。技監というのは技術職で一番偉いポストでございますし、今日参加者の中にも技監経験者が実は何人かおられます。そういう技術職としては最高位のポストに就かれた、ということであります。そうするとよく素朴な疑問でみなさん思われるのは、じゃあそういうことだと、それは世の中的に言うと左遷ですか、と考えられると思いますが、わたくしから申し上げることは控えます。

 では、田村さんは53年以降、みなとみらい21に関わったの?という素朴な疑問が出てくると思います。そういう質問を田村さんご自身も、いろいろなところで講演される時にされたことがあるようです。田村さんは、実質的には関わってないと思います。ただし、その思想性と、その仕事のやり方は継承されたと考えます。これは私の考えでございますので、ご本人もおられるので、そうじゃないと言われちゃうと困りますが、小澤恵一さんや廣瀬良一さんが継承されました。小澤恵一さんは企画調整局時代の企画課長で、みなとみらい21を中心的になってプロデュースされました。田村さんの時代からみなとみらい21を担当されました。

 そして、企画調整局の総合土地調整課長を務めた廣瀬良一さんです。廣瀬さんは今日出席されていますが、それらの方々に田村イズムとしての田村さんの考え方、田村さんのまちに対する姿勢、在り方、進め方、すべてをこれらの方々が、みなとみらい21を今のような形に仕立て上げたのではないかと思います。だから、田村明の思想性は受け継がれ、今のみなとみらい21があるのだと思います。

 一応これで大体私の言いたいことは終わります。こういう中で最後にちょっと手前味噌の宣伝ですが、みなとみらい21の研究というのは色んな方が実はされています。ただこういう、時系列的に50年間にわたってどういうことがあったのかということを細かく追跡された研究というのはあまりにありません。ということで、この論文の意義性が若干あるかなというふうに思っております。

 

 これは非常に細かいものでございますが、年表です。お手元の冊子の後ろの方にございます。96ページにございます。字が細かくて大変恐縮ですが、この年表をつくることが、今回、大きな目的でもあったわけです。実はこの最初の第一期、これは昭和39年12月、六大事業と後に言われる、いわゆる横浜の改造計画が環境開発センターから横浜市長宛てに提案されたわけです。その時代から昭和53年までが第一期というふうに考えております。その第一期については、ほとんどが他の資料には書かれておりません。ということで、この時代を細かく発掘するのが、今回の大きな目的でありました。

 それと、第二期に関しても、どのようなやり取りがあって、この開発が始まったのかということはあまり書かれていない。そのため、今回この論文をまとめる上で大変にお世話になったのは横浜市の現職の職員の方々です。その方々に対して、その部署に対して、情報開示請求を致しました。横浜市が色んな事業をやるときは方針決裁書というのをつくるわけですが、この論文の中にもたくさんでてきますが、判子がいくつも押されているようなものですね。いわゆる「稟議書」と言っても結構だと思いますが、それを作ります。それの情報開示請求を致しました。それによって、その方針決裁を作るときに色んな資料が付いてくるわけですね。それがすべてオープンになるということで、研究に際しては非常に役に立つものですが、そういうものを情報開示請求させていただき、たくさんの重要な資料を得ることができました。

 

田村明『都市プランナー 田村明の闘い』(学芸出版社、2006年)
田村明『都市プランナー 田村明の闘い』(学芸出版社、2006年)

 田村明さんの著書『田村明の闘い』を、お読みになった方が多いと思いますが、実は先ほど鈴木先生が言われていることと少しずれるのですが、この本を読んでも実は分からないことがどんどん湧いてくるのですね。みなとみらい21の話もそうなのですが、高速道路の地下化のときもそうでした。2、3年前ぐらいに、ずっと1年ぐらいかけて、それを調べて、今NPO研究会のホームページに公開していますが、詳細な経緯が分からなかったのです。背景も分からなかったです。それに関しても、色んな資料を発掘しました。

 みなとみらい21についても、実は分からないことが多いのです。田村さんは、関係者がまだご存命ということもあるのか、色んなご配慮をされています。ご配慮されたために、語りにくい部分が相当あるのだと思うのです。そういうことで、どうもぼやかしてる部分があまりにも多いと私は思っています。ただし、その大方の部分は今回明らかになったかなと思っています。

 もう一つ、非常に重要な資料は、小澤恵一さんが亡くなられる前に、ご自分で保管されていた資料をすべて横浜市の市史資料室に、野毛山にございますが、そちらの方にすべて寄贈されました。それが整理されて公開されています。その資料を今回の研究でたくさん使わせていただきました。

 ただもう一つ、田村さん自身が、実はみなとみらい関係の資料を一切お持ちではないのです。もっと細かく申し上げると、他の色んな、市でおやりになっていた当時の事業に関係する資料もお持ちではないですね。ご自分では保管されてなかったということです。これは田村さんの資料も同じように、市史資料室に莫大な数が寄贈されているのですが、そういう具体的な事業についての資料は一切ありません。僅かに1点2点ぐらいはあるのですが。ということで、小澤恵一さんの資料が私の研究活動で非常に役に立った、ということでございます。

 3時ぐらいまでですよね。あ、50分。やはりこういう場ですから、最後に1人か2人ぐらいご質問を受けたいと思っておりますので、じゃあ、頑張りますね。あと10分で40年分やりますので。

 これだけは申し上げたいのは、今回の論文で一番のメインテーマは、田村さんが言われてきた「民間主体開発」です。そういう言葉は使われていないのですが、民間に開発をやってもらい公共的な施設もそれで整備していく。だから民間が自分のビジネスとしてやることによって、公共的にもメリットを受けるまちづくりをするのだと。だから公共サイドが全部莫大な投資をして、民間開発を呼び寄せる、という形ではないのですね。

 

横浜市会での想定質問と回答の検討メモ 出典:市史資料室『小澤恵一寄贈資料・分類番号49』
横浜市会での想定質問と回答の検討メモ 出典:市史資料室『小澤恵一寄贈資料・分類番号49』

 

 これは、市議会の答弁用のメモ用紙です。これは誰の筆跡なのかという議論がありました。田村さんの字かな?でも田村さんの字にしてはきれいすぎるなと思いますね。色々あって、実は小澤恵一さんの字であるということがわかりました。ここに民間開発と公共側の関係がどうあるべきだ、というのが書いてあります。あとは論文に載っていますので、ご参照下さい。

横浜市中心地区計画部分図 出典:環境開発センター『横浜市将来計画に関する基礎調査報告書』昭和39年12月5日添付資料
横浜市中心地区計画部分図 出典:環境開発センター『横浜市将来計画に関する基礎調査報告書』昭和39年12月5日添付資料

 

 さて、これが最初の計画の絵ですね。みなさん、赤レンガ倉庫は田村さんが保存したと思われているでしょう、まあそうなのです。これは最初に環境開発センターが出した絵ですが、NPO研究会で一緒にやっている遠藤博君が、この絵には赤レンガ倉庫ないぞと言いだしました。赤レンガ倉庫は新港埠頭の所にあるのですが……ないのです。計画上は壊されています。

 これに関して言えば、僕らが感じた田村明像というのは、田村さんは、どんどん学んでく人だということです。どんどん新しいことを、あるいは自分が考え違えたことを修正していく、そして自分の考えをどんどんどんどん高めていく、そういうことが出来る人だということです。つまり、赤レンガ倉庫は計画当初では意識に入っていないのです。壊して絵を書いてしまった。だけど、田村さんは徐々にその歴史的価値というのを気付いていくのですね。それで昭和50年ぐらいまでになると、その後の計画図にはきれいに残っています。だから、徐々に色んなことを学んでいかれた方であると。あ~すごいなと思って、常にそういう姿勢がお持ちの方であるっていうのは、我々にとっても非常に勉強になる、そういうことです。

 

限定的な三菱重工横浜造船所跡地開発を中心に周辺に波及する段階的開発方針を示した。 出典:環境開発センター『横浜市・緑町周辺地区再開発に関する基本構想及び土地利用計画報告書』昭和44年3月
限定的な三菱重工横浜造船所跡地開発を中心に周辺に波及する段階的開発方針を示した。 出典:環境開発センター『横浜市・緑町周辺地区再開発に関する基本構想及び土地利用計画報告書』昭和44年3月

 

 これが昭和43年以降、市に入られたぐらいですね。どういう風な開発をやるのか、というための絵です。これでお分かりいただけるように、ちょっと絵が抽象的なのですが、当初意図したのは、三菱造船所の一部を埋め立てる、ほんのわずか埋め立てて使う、という絵です。だから関内地区と三菱の造船所、それと横浜駅周辺。三つの地区が一体となって機能する、そういう意図をずっと堅持されていますね。

 

昭和47年三菱地所による三菱重工業横浜造船所再開発計画その2(街区計画図) 出典:横浜市史資料室『小澤恵一寄贈資料・分類番号51』
昭和47年三菱地所による三菱重工業横浜造船所再開発計画その2(街区計画図) 出典:横浜市史資料室『小澤恵一寄贈資料・分類番号51』

 

 これが三菱さん、当初から三菱地所を開発の主体として使うことをもう昭和43年、44年ぐらいからお考えですね。だから、何しろ民間の力をしっかり使うのだ、これ自体も造船所の地先をちょっと多めに埋めたぐらいの絵ですね。

 

都心臨海部再開発構想図 出典:市企画調整局・大高建築事務所『都心臨海部再開発基本構想報告書』昭和50年3月
都心臨海部再開発構想図 出典:市企画調整局・大高建築事務所『都心臨海部再開発基本構想報告書』昭和50年3月

 

 これは昭和50年の絵です。これが企画調整局内部の職員と大高建築設計事務所で一緒に書いた絵ですが、これくらいの規模なのですね、せいぜい。

 

公表中間案・横浜市『都心臨海部総合整備基本計画』昭和56年7月頃 出典:同報告書
公表中間案・横浜市『都心臨海部総合整備基本計画』昭和56年7月頃 出典:同報告書
埋立法線図 出典:大高建築設計事務所『都心臨海部総合整備基本計画調査(2)報告書(みなとみらい21)』昭和57年3月1頁
埋立法線図 出典:大高建築設計事務所『都心臨海部総合整備基本計画調査(2)報告書(みなとみらい21)』昭和57年3月1頁

 

 そして、これが昭和53年、54年、2か年かけて細郷市政の中で作られた八十島委員会、この方は東大の交通工学の専門家の先生でございますが、その委員会の絵です。この絵を作るために、実はもう時代錯誤みたいな話ですが、建設省と運輸省は、ここにおられる3/4の方ぐらいはそうだそうだと思われるでしょうが、別の役所だったのです。たぶん1/4の方は知らないと思うのですが、現在の国土交通省となり、いま同じ役所になっていますが、その運輸省と建設省のいわゆる、なんていうんですかね、テリトリー、利権争い、ちょっと言葉はあれですが、ご自分たちの法制度上の権限についていろんな軋轢がありました。それを調整することがこの絵の主たる目的であったという理解ですね。

 それが解消されていく中で、徐々にみなとみらい21の開発規模というのはどんどん大きくなっていくのです。大きくなるというのは、埋め立ての面積がどんどん増えていくのです。これが中間案なのですが、そしてこれが最終的な案ですね。今の形と同じです。このぐらいの規模に増えていくのです。それはなぜ増えていくのか。もう説明する時間がなくなりましたが、この論文の中に細かく書いてあります。これはいろいろな関係されている方々の軋轢の中で増えていったのですね。

 そしてその埋め立てというのは海を埋め立てるわけですから、これタダでないかと言う方がいると思われますが、埋め立ての事業費というものがかかります。

そして、私がお話しする中で最初ちょっと言い忘れた、きわめて重大なことが1点あります。みなとみらい21というのは三菱さんの造船所の開発以外に、当時の国鉄の操車場の開発、それが大きなポイントなのです。国鉄さんはこの図面の左側、高島ヤードという薄く線が何本も描かれているのが見えると思いますが、大きな貨物の操車場です。貨車を目的地別に組み替える、大きな敷地があったのです。それと桜木町の駅前には貨物駅というのがありました。つまりその二つをどかさないと、みなとみらい21の開発ができないのです。それが非常に大きな、大変な問題だったのですね。

 だから、造船所と国鉄さんの件がすごく大きな問題でした。そして国鉄の問題に関しては、昭和62年に国鉄が民営化されますので、そのあと色々な動きがまだあるのですが、その国鉄にいかに対応してもらうのか、ということが大きな問題でした。それについても、この論文の中では細かく書いております。是非お目を通していただければと思います。

 

MM基盤整備の事業手法・事業区分図 出典:市長方針決裁書『三菱重工業横浜造船所横浜工場跡地開発に関する協定の締結について(伺)』昭和58年3月16日起案
MM基盤整備の事業手法・事業区分図 出典:市長方針決裁書『三菱重工業横浜造船所横浜工場跡地開発に関する協定の締結について(伺)』昭和58年3月16日起案

 

 これが最終的に決着した事業上の区分です。この図面は、なんか素朴な図面だなというふうに思われるかもしれませんが、これが、市の方針決裁書の中に綴じ込んであった図面です。左上がポートサイド地区です。高島ヤードは2というふうにかいてあります。これはけっこう大きな場所なのですが、港湾整備事業で運輸省関係のお金を使う区域、それと建設省の土地区画整理事業の区域、そういう事業区分と対象区域が描かれています。これも論文の中にありますので、ご参照ください。

 

MM区画整理対象地区の従前の土地図、グレー部分は旧緑町の海面 出典:UR都市機構東日本都市再生本部への情報開示提供資料、神奈川県県土整備局都市部都市整備課土地区画整理グループへの情報開示提供資料を元に筆者が作図
MM区画整理対象地区の従前の土地図、グレー部分は旧緑町の海面 出典:UR都市機構東日本都市再生本部への情報開示提供資料、神奈川県県土整備局都市部都市整備課土地区画整理グループへの情報開示提供資料を元に筆者が作図

 

 最後に、区画整理をやった時の、従前の土地がどういうような敷地割であったかは、実は一般的に明らかになっていません。これは最終的には神奈川県、そして昔の住宅都市整備公団ですが、今のUR都市開発機構に情報開示請求を致しました。そして、ご担当者の方々には大変お手間をかけたのですが、公開していただきました。なかなかこういうものを調べるのは本当に大変ですね。資料を特定し担当部署を特定するのが、もうどうしたらいいのか、気が遠くなるようなことが何回もありました。

 

三菱地所と三菱重工所有のMM区画整理対象地区内の換地位置図、濃いグレー部分が日本丸メモリアルパーク用地との交換用地  出典:UR都市機構東日本都市再生本部への情報開示提供資料、神奈川県県土整備局都市部都市整備課土地区画整理グループへの情報開示提供資料等により筆者が作図
三菱地所と三菱重工所有のMM区画整理対象地区内の換地位置図、濃いグレー部分が日本丸メモリアルパーク用地との交換用地  出典:UR都市機構東日本都市再生本部への情報開示提供資料、神奈川県県土整備局都市部都市整備課土地区画整理グループへの情報開示提供資料等により筆者が作図

 

 最後、これがみなとみらい21の現在の敷地割ですね。「現在の」というと語弊がありますが、土地区画整理事業とは、従前の地主さんが換地、つまり土地を返してもらうわけですね。そのときの区画割です。その後に土地が転売されて、「現在の所有状況」になります。さて、その中で、この墨掛けになっているところは、三菱さんがお持ちの場所、つまり換地を受けた場所がどこかということを解明したものです。どこに三菱地所あるいは三菱重工さんが土地を持っているかは、なんとなく分かるのですが、正確には分からないのです。それをここまでたどり着くのは、まあえらく大変でした。不動産登記所で閲覧すると、マンションやオフィスに分譲されたケースもありますから莫大な件数になります。かつ、費用もかさみます。ただし、サンプル的には登記上で謄本をとっています。そのようなこともやりました。

 

 この論文の結論は何かと言われると、簡単に申し上げることは難しいですね。民間主体開発は、民間を開発の主体に据えてやってもらうことですが、概ねできたと考えます。ただ、この開発の規模からお分かりのように、当初の図面からだいぶ区域が広がりました。大幅に広がったといってもいいかもしれません。その中で三菱地所、三菱重工さんが、一生懸命まちづくりを今もされているわけですが、全体の規模からいって、だいぶその所有割合は小さいですね。それと、先ほど申し上げました、高島ヤードとか、そういう国鉄さんが持っていた土地については、国鉄清算事業団に土地が移管され、国鉄清算事業団がそれを民間なり公共に売却するということですが、結果的に莫大な額になった。これはまた論文にありますんで、参照していただければと思いますが、横浜市が買っております。その一部が転売されて日産自動車の本社ビルにもなっています。そういうふうに、一旦横浜市が買って、会社を誘致して安く、高くじゃないのですね、安くお売りしているようです。横浜市の政策としてはよろしいのかと思いますが、莫大なお金が、このみなとみらい21の開発事業にはかかっているということと、長い時間がかかっています。

 それと色んな方々が、田村さん、小澤さん、廣瀬さん、以外にも今日ここに来られている方々もそうだと思いますが、多くの方が関わってこのまちができています。まちづくりを、長期的に責任をもって推進する市役所内部の人材が継続したことも大きいと実感しています。今後も多くの方が関わって、このまちができていくのだと思います。我々がすべきことは、これまでの歴史を整理するということだと思いますので、NPO研究会を設立しました。じゃあ時間もなくなりましたので、1名ぐらい、どなたかご質問おお願いします。たくさんご質問あると思いますが。じゃあどうぞ。

 

質疑応答

〈質問者〉

 港北区に住んでおります、松浦と申します。どうも、田口さんいつもありがとうございます。今日小冊子の方を拝見させていただきまして、大変印象深かったところが、埋め立て会計のあとの、頂きました論文の章立てで申しますと、4-8の土地開発公社の会計というところから、今日の今のお話の最後のところにある、要は国鉄清算事業団が、みなとみらい21の土地開発の影響が及ぶ範囲の土地を全部持っていたというところですね。あと、二つ質問ございまして、一つは、今回、田口さんのお話は今まで開発とそれから行政のお話が多かったと思うんですが、それが今回このように市民にとっては非常に気になる、市の財産がどのように生かされたか、みなとみらい21の計画の中で生かされてきたのかというお話になったこと、大変よかったのですが、これからそれについてどういう研究をなさいますか、続けられるんでしょうかということと、もう一つ、小澤恵一さんの蔵書が市の市史資料室の方に収められたということで大変喜んでおりますけれども、ぜひ田口さん個人としてその資料を見た中で、一番自分がこれはこうだと思わなかったという、印象深かったことを一つお聞かせいただけませんでしょうか。どうもすいません、お願いします。

 

〈田口俊夫〉

 はい、ありがとうございます。大変根源的な質問なので30分ぐらいかけないと答えられないでしょう。最後の方から言うと、この研究を始める最初に、わたくしの強い思い入れというか、思い込みがありました。今日その関係者の方もおられるかもしれませんが、この論文もご覧になっていただいたのですが、三菱関係がこの事業に際して、相当なる優遇をされてきたのでないのかなという思い込みがあったのですね。結論的に申し上げると、小澤さんの資料とか、参考資料を分析すると、それはどうも、そういうことはなかったみたいですね。ただし、途中そういう雰囲気のときもあったかもしれません。ある時代はですね。

 ただその後も、三菱さんは極めて一生懸命まちづくりに貢献されている。つまり、ご自身たちの土地も公のために提供したりして、たいしたものだなと逆に思いました。ただ、松浦さんの最初の質問と同じなのですが、じゃあ、どの程度ちゃんとやっているのかですね、程度の問題とかいろんなことに関しては、今後研究を深めないとわかりません。最初のご質問もそうですが、今後この研究がどういうふうに展開するのかは、我々NPO研究会の会員、あるいは今度新規にお入りいただける会員の方々、あるいは周辺でご賛同いただける方々と共にですね、研究の在り方、研究の高め方を議論しながらやっていきたいなというふうに思っていますので、ぜひ松浦さんもご参加いただいて、研究をご一緒にと思います。そんなことで、すみません。じゃあ5分延長しましたが、はいこれで終わります。