仕事
学生時代
![旧制静岡高校時代の田村明(写真右)](https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=289x1024:format=jpg/path/s36213fcafaae67fb/image/i050b23dbcfc0f9fe/version/1433688215/image.jpg)
旧制静岡高校時代、田村は徴兵を免れるため理系の道に進み、東京大学工学部建築学科に入学する。建築学科では丹下健三の指導を受けている。その後、運輸省に勤務しながら、法学部法律学科と同学部政治コースを卒業し、計3枚の卒業免状を手にした。
日本生命保険
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1954年、田村は大阪に本社がある日本生命保険相互会社に入社し、1963年まで不動産部に勤めた。
不動産部では、法学部時代に得た土地建物に関する知識を生かし、不動産の評価・売買などを手掛けた。
その後、不動産鑑定士制度が導入された際に、田村は第一回試験を受験して見事合格し、国家資格を取得した。
環境開発センター
![環境開発センター時代の田村明(写真左)](https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=290x1024:format=jpg/path/s36213fcafaae67fb/image/i898a67da450b3eca/version/1433688276/image.jpg)
1963年、田村は浅田孝が主宰する環境開発センターに参加。香川県の観光開発計画や、大阪万博の企画などに携わった。横浜の新たな都市づくりの戦略を定めたマスタープログラム「六大事業」の策定にも、この時携わっている。また、この時期、「ソ連・東欧都市・建築視察団」に参加し、自身初の海外旅行を経験した。
環境開発センター時代に出会った大高正人・槇文彦・粟津潔をはじめとするメタボリズムメンバーや八十島義之助、鳴海正泰らとのつながりが横浜市入庁後の活動に影響を及ぼした。
横浜市役所
1968年、六大事業の推進役として横浜市に入庁。
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法政大学
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1981年、横浜市を退職し法政大学法学部教授に就任。1996年退職。その後法政大学名誉教授。
法政大学の田村明ゼミへの参加案内