第4回公開研究会(『高速道路の地下化』第2回)開催報告

第4回公開研究会

去る10月29日、開港記念会館にて第4回公開研究会(『高速道路の地下化』第2回)を開催しました。当日は会員10名ほどが集まり、田口氏の発表の後、参加者全員で活発な意見交換をしました。議事録は後日公開予定ですので、しばらくお待ちください。

 

10月29日の発表を終えての感想(田口俊夫)

 田口の発表の後、参加者全員で意見交換をした。なぜ田村明は昭和44年3月4日大雪の日に建設事務次官に会いに行き、一体何を話したのだろうか。大通公園にランプをつくれなどというレベルの話を事務次官とするために出向いたのか……、そんな話は専門官や担当者レベルで済む話でないか。有力政治家を挟んでする話ではない、本当には何の話をしたのだろうか。

 大岡川の洪水調整をする大岡川分水路計画が、極めてグッドタイミングに昭和44年2月都市計画決定された。これで下流にあたる中村川に高架高速道路の橋脚を、川の流れ方向に沿って建てることができる。最後までもめた「内陸部ルート」をようやく吉田川から中村川に引き戻す下準備が整った。誰がこの調整を図ったのだろうか、自然とこの時期になったのだろうか。 

 

 吉田川の巨大インターチェンジは高架方式であれ地下方式であれ、膨大な土地を必要とした。周辺街区を大幅に買収することになる。昭和43年10月に都心部ルート(派大岡川)の地下化が決着している。それに連結する吉田川の地下インターチェンジは高架方式より視認性からおおきな曲率半径を必要とする。とてもこの場所に納まるものではなかった。高速道路担当も建設省も理解していたはずである。横浜市が広い公有地をもっている石川町地区の方がインターも作りやすい。現実はその通りになっている。

 

 そもそも都心部ルートの高架道路下には商業ビルや駐車場ビルが計画された。地元商店街対策である。しかし、インターチェンジとの接続のため、高さが低くなり規模が縮小された。でも、地元には有利な話でなかったのか。商店主としては新たな競争相手と映ったかもしれない、客をとられる。その程度の商店街の力なのか……。

 

 飛鳥田市長たちは、中村川ルートを都市計画決定する昭和45年11月まで、その計画すら明らかにしなかった。それが旧都市計画法の「作法」であった。かつ、当時はだれも吉田川ルートの存在すら知らなかった。

 

 昭和44年5月20日付で官報に掲載された建設省告示2333号にも、なんら「内陸部ルート」問題は記述されていない。都市計画決定の変更図書に都心部ルートの記載はあるが、それだけである。幸いなことに、当該告示に係る建設省の方針決裁書ファイルに「事前審査」メモが添付され、吉田川や中村川そして地下鉄に係る記載がある。当時、このメモは対外的に明らかにされることはなかったはずだ。

 

 横浜都心部の美観にこだわるハマっ子市長飛鳥田の命を受けた田村明は、横浜都心からの高速道路延伸部分を再調整することになった。大通公園を構想していた吉田川に、まさか建設省が内陸部ルートを希望するとは思ってもみなかっただろう。都心部ルートの地下化はこの問題の副産物のようなものである。

 

 地元の反対を強く恐れる高速道路部門は、早い段階から派大岡川での地下化を決断していたとみえる。この地下化ができれば、インターでの接続の関係上から内陸部ルートも地下化するしかない。それが昭和43年3月の首脳部会議で交わされたように、地下鉄建設との問題を複雑にした。高速道路がでるか、地下鉄がでるか、その二者択一となる。

 

 地下鉄も町中で曲がるにはそれなりの曲率半径を必要とする。結果として、周辺街区を買収するしかないが、それは極めて難しい。先ほどのインターの作り易さからして、高速道路が熟慮の末、外にでることになった。これが論理的結論である。ここに至るまで時間がかかった。

 

 まったくの推論だが、最後の幕引きで建設省は面子を保つストーリーを求めたかもしれない。その後のおおきな潮流となる「景観重視の都市施設づくり」である。建設省も変わったものだ、と世間は拍手した。現代では考えられない強大な権力をもった建設省に対して、横浜の地方役所が盾を突いた。そして、その要求を貫いてしまった。このような話を事務次官との会談で田村明がしたかもしれない、あくまで想像だが。

 

当日配布資料

10月29日地下化発表メモ.doc
Microsoft Word 5.9 MB
地下化経緯年表.xls
Microsoft Excel 95.5 KB