いまやっている作業・・・・・・

(文:田口俊夫)

 みなとみらい(以下「MM」と言います)について調査研究を進めています。MMのパンフレット類はたくさんある、しかし昔のことは書かれていない。私にとっての「昔のこと」とは、昭和39年に六大事業が発表されてから昭和53年に飛鳥田市長が去り、細郷市長が就任し急にMMが事業化に向けて動き出す昭和53年から58年頃にかけてである。

 MMについては公に分かっているだけでも昭和50年から58年にかけて、いくつかの開発構想図が描かれてきた。ただし、その背景がよく分からない。どの時期に、何のために、どうして描かれたのか・・・・・・そして、どうして修正されていったのかも。

 

 田村明著『田村明の闘い』を何度読んでも、多くの配慮があり言葉巧みに隠されている事実があるようで、本当のところは分からない。当時の関係者の証言録もあるが、全体の流れを細かく追うことはできない、当事者の都合と記憶に頼る限界がある。

不思議なことに、横浜市の正史でMMは六大事業の宣伝パンフの域を出ないが、民間当事者である三菱重工業や三菱地所の「社史」には意外と詳細に記述されている。自分の会社として苦労したことが正直に書かれている。

 

 このような状況下で、画期的な史料に遭遇した。田村明の下で企画調整局企画課長として三菱との交渉窓口を務め、その後細郷市長の下でMMの事業化の糸口を作った小澤恵一の個人資料である。それが横浜市史資料室に寄贈され公開された。古い報告書類もあるが、衝撃的なものは関係者とのやり取りメモ類である。そのメモ類は公開資料なので、だれでも閲覧できる。ただし、研究活動として、そのメモをどう扱うかは慎重を要する。公的資料で裏取りをする必要性を感じている。

 

 今回横浜市に行政資料の情報開示請求をした。それは、これまでの資料収集と情報整理そして関係者ヒヤリングによって田口なりの「仮説」が構築でき、それに基づき時系列的に存在が想定される行政資料、特に市長までの決裁をとる「方針決裁書」を発掘することが目的であった。田口だけでは当然不可能な作業で、市役所現役の方々の力を借りないと到底できない。港湾局や都市計画局の担当者の方々が意気に感じて動いてくれた、と田口は勝手に思っている。

 

 下記の年表に発掘できた方針決裁書が入っている。いま、それら資料を読み込みながらMMの前史を書き始めている。昭和53年4月に横浜市に入り、その後みなとみらいも担当した自分が、如何に何も知らなかったのかを痛感する日々である。

◆情報開示請求文書 年表◆


昭和39年12月 環境開発センター「六大事業構想」発表

昭和43年4月 田村明が横浜市企画調整室担当部長に就任


<横浜市行政情報開示請求その1>

起案日 昭和46年4月1日 三菱重工業横浜造船所横浜工場内公有水面埋立申請取下書

情報開示・造船所埋立申請取下げ.pdf
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昭和51年3月 三菱重工が移転先市有地33ha購入の仮契約を締結

昭和53年3月 飛鳥田市長辞任、移転先市有地購入の仮契約を2年間延長

昭和53年4月 細郷市長就任

昭和53年11月 八十島義之助委員長「横浜市都心臨海部総合整備計画調査委員会」発足


<横浜市行政情報開示請求その2>

起案日 昭和55年3月28日 三菱重工業横浜造船所横浜工場の移転とその跡地開発に関する協定の締結について(伺)

昭和55年MM跡地開発方針決裁書.pdf
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昭和55年4月 三菱地所が三菱重工と横浜造船所跡地28haの売買予約契約を締結


<横浜市行政情報開示請求その3>

起案日 昭和58年3月16日 三菱重工業株式会社横浜造船所横浜工場跡地開発に関する協定の締結について(伺)

昭和58年MM跡地開発方針決裁書.pdf
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昭和58年3月18日 三菱重工が移転完了する。(金沢工場で総合竣工式が挙行される。)

昭和58年3月31日 跡地開発に関する協定が締結され、三菱重工の土地が一部、住宅・都市整備公団、横浜市に譲渡される。(三菱地所にも20ha譲渡される。)

 

<横浜市行政情報開示請求その4>

起案日 昭和58年5月30日 みなとみらい21中央地区土地区画整理事業に対する基本方針について(方針決裁)及び本市-住宅・都市整備公団間の協定書等の締結について(伺)

MM区画整理事業方針決裁書.pdf
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開示決定通知書.pdf
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