田村 明・旅(2)

本研究会理事長・田村千尋氏によって書かれた「田村 明・旅(1)」の続編にあたる文章です。

田村  明 ・ 旅(2)

            田村千尋

自由な選択

 戦争が終わり、爆弾や焼夷弾による死の恐怖から解放された。勤労動員も解除され、再び静高での学びと寮生活が始まる。集まった面々それぞれが思いのたけをぶちまけた。拘束と強制の世界とは隔絶した新鮮な空間があった。わずか一年という短い時間ではあったが、自由とはかくも自由であったかを知った。明は何か惹かれるように自己を表現出来る演劇の世界に没頭し、楽しかった事を父母、兄弟に語る。19歳、青春の最後に間に合った。

 そして大学を受験する時が来た。自分の人生の方向を決める時でもある。思えば旧制高校受験では兵役を避ける為に自分の道を探したが、これからは自分がやりたい仕事から選ぶ事ができる。そして同時にそれは「結果の責任は自分にある」という意味でもある。明はこの時点で自分の進みたい道が見えていたわけではない。わたしが見ていた彼の心を探りながらこの後、彼の気持ちになって書いてみよう。「まず大学だが東京大学にいけそうな点は取っている。次は理工系の道は自分の心から離れてない、後は消去法で考えればよいだろう。理学部は一つの道を究める、あるいは自然そのものを考究するタイプの人が行く所だが自分はそうではない。従って選択肢の第一は工学部である。そこの科目は機械、電気、工業化学、土木、そして建築がある。中学3年の時、数学に開眼し、問題を解くと言う能力は獲得した。だが、物事を数学的に考える力が出来ただけだ。機械や電気と言った方程式の上に成り立つ実学はあまりにもキッチリし過ぎてそんなに好きではない。それは中学の頃、好きであり、得意でもあった歴史、地理などの社会科的な視点がない。化学は嫌いではなかったが、やはり歴史的、地理的な空間がせまい。土木と言うとどうしても現場の体力や腕力が必要な感じがするが到底自信はない。残る建築には多くの境界領域的な世界が有りそうだ。人と人の接点と接触頻度の違いを最も感じられ、それが仕事そのものの様だ。ここしかない、自分に相応しい唯一無二のフィールドだ、それに父方の祖父は宮大工、つまり建築だ」この考えを父母に話し大賛成を得た。目的の学部学科に一歩を踏み出した。

左から、忠幸、義也、明、千尋、1953年前後、明は運輸省と学生の掛け持ちをしていた頃と思われる。千尋はまだ学生、何の集会だったかは記録がないが、この頃、食事はやっと豊かになる。母は草月流の師範として生徒も30人以上、父はナショナル金銭登録機(NCR)の販売部長、教育部長などを兼務して生活にも余裕がやっと出て来た時だった。

カメラ好きの父が当時、有名になったニコンを購入、まだモノクロの時代だった。

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参考資料

田村 明・旅(2).pdf
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