みなとみらい都市開発での負担の構造

 田村明たちが意図したみなとみらい開発計画は行政主導・民間主体の開発手法であった。当時の社会経済的情況のため、飛鳥田市長と田村企画調整局長在任中に開発が目に見えて動き出すことはなかった。その後の細郷市長時代に受け継がれたといえるが、その開発手法は田村たちが意図したものと違っていたという。それゆえ、双方の手法を比較検証することによって、田村たちの意図を浮き彫りにしたいと考えた。

みなとみらい都市開発での負担の構造

2015年6月11日

田口俊夫


はじめに

 みなとみらい(以下「MM」という)は、横浜港に面した広大な地区である。埋め立て前のMM中心部には、明治20年代に横浜船渠会社として始まった三菱重工業横浜製作所横浜工場(「横浜造船所」ともいう)と、明治5年に横浜・新橋間で開通した日本最初の鉄道に通じる国鉄の東横浜貨物駅があり、そして横浜駅寄りに国鉄高島操車場と高島埠頭、関内寄りに新港埠頭がその両脇を固めていた。この造船所と国鉄東横浜貨物駅が移転した跡地で、MMの第一期開発が開始されている。

 昭和38年に初当選した飛鳥田一雄横浜市長の依頼で、環境開発センターの浅田孝と田村明が昭和39年末に、横浜市再生の総合的なプランである所謂『六大事業(筆者注:実際の提案項目数は7で、後に提案1と提案2が合体してMMとなっている)』を提案した。提案1の「新業務地域開発計画・ポートサイドビジネスセンター」は、三菱の造船所と国鉄貨物駅が対象となっている。提案2が「国際貿易センター開発計画」で、横浜駅寄りの国鉄高島操車場と市営高島埠頭の再開発が構想された。この提案1と提案2が合わさって、MM開発となっている。旧来からの横浜中心部である関内・関外地区と、鉄道ターミナル駅として新たな繁華街となりつつある横浜駅周辺地区を結ぶ役割がMMに期待された。

田村たちはMM開発に「つなぎの役割」を期待した。決して当該地区を突出したものに位置づけていない。それは、田村たちによる調査報告書類にみられるように、造船所地先の埋め立てを最小限に抑えることに拘った点に表れている。なお、造船所は当時盛んに活動しており、田村たちが六大事業を構想した時に会社の移転方針が出ていたわけではない。六大事業の報告書の中で、田村たちも造船所移転の可能性は定かでないと述べている。ただし、六大事業の中核となる事業で、田村たちはこの事業の成否が横浜の将来を決めると考えていた。

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参考資料

MM都市づくりの負担の構造 .pdf
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