ケニアからの報告 A life in Kenya

 

22世紀はアフリカの時代」とは、田村明が再三アフリカを訪れ横浜の現代まちづくり塾などで口にしていた言葉である。62360年余りケニアナイロビで過ごされている

 

関亨氏が久しぶりに帰国された機会に旧友である我がNPOの田村千尋理事長の求めに応じお話をしていただくこととなった。

 

 関さんを始め昭和一桁世代は太平洋戦争を挟み激動の青春を過ごされた。小学校から青山学院で過ごされた関さんは、戦後商学部で勉学をなされアルバイトで得た金銭を評判のレストランでの食事を楽しまれていた。そのうち料理人と懇意になり、調理の手ほどきを受け料理の基本を身に着けて行った。大学を卒業後、鉱山関係の仕事をしていた父の影響もあり、青森などで辰砂(水銀の鉱物)の採取にあたっていた。ある時彼の妻が朝日新聞の記事に赤坂料亭の女将が旅行途中にナイロビを訪れ気に入り現地にレストランを開くことになったという紹介記事を見つけた。以前から海外へあこがれを抱いていた妻は女将に連絡を取り同行することになり、関さんも通訳がわりに現地へ赴くことになった。この頃既に子供が2人いたのだが。頼りは3年後の帰りの航空券だけだった。

 

当時のナイロビは、工事従事者の昼は両手いっぱいのポテトチップスを何人かで分け合うような状態だったが、関さんがその脇を通るとその食事を勧められるくらい人々は穏やかで不安は消えていた。ケニア・ウガンダ・タンザニアの東アフリカ3か国には好印象をもっているようだ。日本食はナイロビや周辺にいた日本人を顧客に提供して成り立っていた。和食の食材は遠く港から氷詰めにして魚類などを調達した。約束の3年後経営者が変わったこともあり、食材の運搬などの事業に特化したが、現地の商社等の要請もあり日本人クラブを開くことになった。ある時ナイロビに皇太子殿下(現上皇)が訪れることとなり、大使館のパーティーでカレーライスをふるまわれたそうだ。米大使館のテロ事件のときは店のガラスが割れるなど危機一髪のことも経験されている。山崎豊子の「沈まぬ太陽」では何回か取材を受けてエピソードも使われ、主人公のモデルとも交流があった。

 

関さんは最近家族の中で一人だけ、日本国籍を離脱した。いつクーデターが起きても財産を取上げられることがないようにするためとは。まさに、コスモポリタン、「こんなところに日本人!」(文責:遠藤博)