「浅田孝と田村明」(二宮公雄)

 

 それでは、私の方は二枚綴じたもので「『浅田孝と田村明』話題提供メモ」ということで準備をいたしましたので、この流れで一応お話しさせていただきたいと思います。内容としてはまず、浅田孝、田村明この人たちがどんな人だったか、それから環境開発センターに対してどういうことを考えて、どういう組織で仕事をしたか、そのあたりのことについて最初に聞いていただきまして、その次は環境開発センターで創立の時に色々な理念を持って始めているわけなんですけれども、具体的に環境開発センターで策定したプロジェクトの中で、どういうところが特色があったといえるのか、そのあたりについて2,3の計画案をもとにして、少しお話しさせていただきたいと思っております。それから3番目に横浜市で六大事業が始まって、それ以来ずっと一貫したまちづくりが続いているわけなんですけれども、横浜市に届ける前の環境開発センターの中での横浜の長期ビジョンについて、送り出す側の状況について若干触れて、その3つを中心にして話題提供ということにさせていただきたいというふうに思っております。

 

1961(昭36)04  *浅田孝 (株)環境開発センターを設立 (40歳)

1963(昭38)01  *田村明 入社 (36歳)

1968(昭43)04  *田村明 退社(勤務年数5.3年)

 

 最初に、点線で囲った枠がありますけれども、先ほど田口さんの方から環境開発センターとそれから色々なプロジェクトそれから田村さんの動き、そういうことについて年表的にご説明があったんですけれども、まあ、ここで私がお話しさせていただくのは、この一番上のところに三行書いてありますけれども、この期間のことが中心ということになります。1961年に浅田孝が環境開発センターを設立、この時浅田孝さんは40歳だったようです。それから二年経って1963年に田村さんが入社されて、その時が田村さんが36歳。それから、1968年に田村さんが退社して横浜市に入られるわけですけれども、この間の田村さんの環境開発センターの在職年数が5年3か月です。私については申し上げますと、田村さんの入社退社のちょうど間にサンドウィッチみたいになってまして、1965年だったと思います。1965年の3月に入社して、1968年の2月だったと思いますけども、田村さんよりちょっと前に退社しました。そういうことになってまして、色々なプロジェクトの策定とか、そういうのがあったわけですけれども、時間的に見ますと、この環境開発センターの色々な計画を世に送り出した期間というのは、何か一瞬の輝きみたいな感じがしております。非常に短い期間の中で、非常に濃密な時間だったんじゃないかなと。田村さんに関して言いますと、田村さんを偲ぶ会が、横浜のクリエイティブセンターで以前ありましたけれども、あの時に私が弔辞といいますか、思い出として述べさせていただいたんですけれども、環境開発センターの時代というのは田村さんにとって、都市プランナーの青春時代だったのではないかなと。そんな感じがしております。

 

1.浅田・田村と環境開発センター

●浅田・田村の出会い・交流とそれぞれの個性

 

*出会い・交流の3つのステージ ①丹下研から入社まで、②(株)環境開発センター時代、③市役所入庁後

 

*それぞれの個性

 浅田:時代の最先端の課題に対する強烈な関心/発想の仕方がデザイン的。建築のデザイン、社会のデザイン、組織のデザインなど/全体の構図は先見性のあるトータルイメージとデイテール

 田村:信念を実現する情熱/全体像の把握と体系化/事業推進の組織戦略

  まず最初の「浅田・田村と環境開発センター」ということですけれども、田村さんはこれはたぶん学生時代の初めて浅田さんに会ったときからのことだと思うんですけれども、非常に浅田さんを尊敬されていました。田村さんをご存知の方はよく分かると思うんですけれども、人の能力評価については非常に厳しいといいますか、正確に評価されていた方なんですけれども、田村さんが尊敬されていたプランナーというのは、一人はこの方役人ですけれども、国土庁の事務次官やられた下河辺淳さん、それからもう一人は浅田さんで、この二人、特に浅田さんを非常に尊敬されていた。そういう田村さんの浅田さんに対する尊敬というのは終生変わらなかったような感じがしております。

 

 田村さんと浅田さんの交流の内容について最初に書いてあるんですけれども、一応私の感じでは3つのステージに分かれて見られるんではないかと思っております。最初は丹下研に田村さんが入られて、卒論を書くというときに、浅田さんが特別研究生、今でいうと大学院ということだと思うんですけれど。これはもうキャリアコースになっているポジションにおられて、田村さんの卒論に関して、相談に乗っています。そこから始まって環境開発センターに入るまでが、最初のステージだろうと思います。で、このあたりについては田村さん自身の本の中でも、結構詳しくこの出会いから入社までのことは書かれていますから、まあ皆さんご存じじゃないかと思います。それが最初のステージで、その次は環境開発センターの中で浅田さんと田村さんがコンビになって地域計画に関するいろいろなプロジェクト策定とか、そういう活動をされた時代。この時点では浅田さんが環境開発センターの代表ですから、そういう意味では浅田さんがいて、その下に田村さんがいたと、そういう関係に形としてはなるのかと思います。それから3番目のステージは市役所入庁後ということで、いずれも田村さんの方から見た立場で書いてますけれども、田村さんが市役所に入られた後の浅田さんとの付き合い。これは先ほど田口さんの年表の説明の中でもありましたけれども、4人委員会がつくられた。今度は田村さんがそういう委員会をつくる立場になって、枠組みをつくって、そこに浅田さん、八十島さん、高山さんなんかに入っていただいて、色々と知恵を出してもらったり、議論してもらう形で、市役所入庁後は、土俵は田村さんの方がつくって、そこで色々と知恵を出してもらった。そんな形になったのではないかと思います。以上分けてみるとそういう3つくらいの区分ステージになるんではないかなという感じがしております。

 

 それで、浅田さん、田村さんそれぞれ非常に優秀で素晴らしい方だったわけですけれども、例えば特色を3つ上げろと言われたら、なんと答えるだろうと思って、それをここの「それぞれの個性」というところに書いたわけです。浅田さんについて3つ、田村さんについて3つ挙げております。浅田さんに関して言いますと、まず非常に特徴的だったのは、時代の最先端の課題に対して強烈な関心を持っていた。今日本の社会で何が問題かというようなことだけではなくて、日本ではまだ問題となっていなかったような、福祉の問題なんかもアメリカで今こういう福祉の問題があるんだ、ということまで含めて非常によく勉強されていた。そういうことに対してどうするかというような、そういう時代の最先端に対する強烈な関心を持っていた方だった、というふうに言えるんじゃないかと思います。それから次は発想の仕方がデザイン的、これは建築にしろ、社会にしろ、組織にしろ、それから政治の問題にしろ、色々な場面で発想の仕方がすべてデザイン的な発想の仕方をしている、ということが一つだったんじゃないかと。それと裏腹になると思うんですけれども、3番目に思いついているのは、要するにトータルのイメージとディテールがある。浅田さんはディテールにものすごく詳しい方でした。後ほど氏家さんに設計の話でもしてもらうと分かるかと思うんですけれども、鉄骨のディテールのおさまりとか、そういうことについて本当にどこでどう勉強したんだろうというくらいに詳しかった。それからデザイン的な発想をしますから、トータルデザインというように非常にユニークな発想をされる方だった。ただ、そのトータルなイメージと、ディテールがあるけれども、そこのつながりが薄いといいますか、要するに二つあって間がどうもつながらないようなところがある。で、このデザイン的な発想とか、トータルとディテールというような話は、田村さんもそういうことをおっしゃっていて、川添さんもおっしゃっている。だいたいみなさん共通してそういうことを感じられたと思います。いずれにせよ、非常に個性的で優秀な方だったんだ、と思います。それが浅田さんに対する3つ特性を言えと言われたら、私はこんなことじゃないかと思っております。

 

 それから田村さんについてですけれども、最初に挙げましたのは信念を実現するという情熱がすごかったと思います。色々な場面で、特に横浜市の六大事業を推進するうえで、出てきたんじゃないかと思います。皆様よくご存じだと思うんですけれども、目標設定して、それを信念を持って実現しようとしていた。田村さんは無教会派のクリスチャンだったと思うんですけれども、やっぱりそのクリスチャンだった田村さんの個性がこういうふうにつながっているんだと私は思うんです。それが一番最初に思い浮かぶことです。それから次は全体像の把握と体系化というふうに書いてありますけれども、これは何を考えるにしても、何を言うにしても、非常に整理されていたという印象はあります。私が環境開発センターに入ってすぐの頃ですから、田村さんと会ってまだ間もないころですけれども、こういうことがあったんです。田村さんと話して、問題の捉え方について、一番右側はどこだという話なんですね。一番右側はここまでで、ここから先はない。それから一番左はどこまでだというと、ここでここから左は無いんだと、いうような話にまずなります。そうすると、この右とこの左の間が全体になるわけですね。で、ここから先は無いですから、他に何かあったとか、そういう話は絶対起こらないわけです。そういうことで全体を確定して、それを今度は中を割っていく時に、まあどんな割り方でもいいんですけれども、赤か黒かでもいいし、三角か四角かでも、何でもいいんですけれども、とにかく全体を割っていく、いくつあってももちろん構わないですけれども。それで割ったところで、例えばこちら側をAだとすると、Aと残りは全体からAを引いたものになると。そういう割り方をするわけです。で、これは3つに割ってももちろん構わないですけれども。割っていったときにそういう風にして捉えていくと、絶対その分割したものを足し合わせると全体に一致するわけですよね。で、重複もしないし、足りなくなることも絶対に無い。そういう話の進め方に初めて私は出会ったんです。それで、私はそれが印象に残っているというか、びっくりしました。これは法学部の論理なんだな、と私は思ったんですけれども、まあそうかどうかは別にして、そういう論理の進め方をするということで全体像の把握と体系化というのが、これが揺るがないんです。これが揺るがないということがやっぱり田村さんが役所の中に入られて、潰れないで色々な仕事をされていたというのはやっぱりそういうところがあったんじゃないかということで、私は非常に印象に残っています。それから3点目、事業推進の組織戦略というふうに書いてますけれども、これは戦略の立て方が非常に上手かった。上手かったというのは結局、ここで言っていることを大まかにわけると浅田さんはデザイナータイプで田村さんがプランナータイプだったということになるのかもしれません。現実的な状況を色々に見渡していて、そこの中でどうするかという選択なり、判断が田村さんは実に上手かったんだと思います。前回ここの研究会で内藤さんが話をされたと思うんですけれども、この話は内藤さんから聞いた話なんですけれど、港北ニュータウンに関連してです。ちょうど内藤さんが住居容積の話をされたのと同じ頃の話で、内藤さんが係長になったぐらいだったと思うんですけれども、港北ニュータウンで地元の方たちをまとめて、まちづくり協議会を設立されたんですね。要するにまだ事業が確定する前の話ですけれども。その時に田村さんがその協議会に出かけて行って、色々会議をされたわけですけれども、その時に例えば地主さんたちでも、関心を持っている内容が色々違うわけですね、賛成の方もいれば当然反対の方もいる中間の方もいる。そういう色々な状況を田村さんは、実に見事に整理して、物事が進むような形に整えたらしいです。それを内藤さんが非常に感激して印象に残ったらしくて、ある日雑談でそういう話を私にしてくれたことがあるんです。そういう組織戦略をここで考えております。

 

 今、田村さんについて私の印象3つあげようということで、最初は信念を実現する情熱という、これは無教会派のクリスチャンだったということが背景になってということだったんだろうと考えています。それから全体像の把握と体系化というのをここに書いたのは、まさに法学部的な論理の作り方について見事な分析力を持っておられて、ああいうやり方であったら、絶対全体が崩れることも無いし、部分を足し合わせると絶対に全体と一致するというような形にできるんだと、そういうやり方を非常に明快に示されていたんではないかということで申し上げました。3番目の事業推進の組織戦略につきましては、港北ニュータウンのまちづくり協議会を設立するときに、非常に組織のまとめ方が、抜群だったという話を内藤さんがされていたと。私自身が記憶してますのは、横浜スタジアムをつくるときの話を記憶しておりますけれども、あそこは都市公園ですから、都市公園の中に施設をつくると建蔽率の制限があるわけですよ、5%だったか3%だったか、正確に覚えていないですけれども、建蔽率を超えるわけにいかないんでどうするか、っていう話があった時に、建設省と相当掛け合っていた。その当時建蔽率というのは、水平投影面積で算定するということだったそうなんです。スタジアムっていうのは、要するに上に広がるような形になっていますから、水平投影面積の一番広いところから下ろしたところで面積になって、それで建蔽率をカウントすることになると、それだと違反することになったんだそうです。スタジアム建設の時に色々議論して、結局落としどころになったのは、地べたにつく接地面の面積で建蔽率を計算するというふうに協議して、そういうふうになったんだという話を聞いたことがあった。例えばそういう話とか、スタジアムの経営計画を立てるときに、実は既存球団が入ってくるとか、そういう話があった時期のようです。年間の経営を安定するために座席を、年間貸切制とかで企業に買ってもらい、それで安定財源をつくり、それで経営を回していくようにするんだとか、そういう知恵をずいぶん出されたようです。そういう話を聞いているとやっぱり事業推進の組織戦略について、まさに抜群の才能を持っておられたんじゃないかなという感じが私はしております。そんなところが田村さんの非常にユニークな点だというふうに私は思っているわけです。

 

●浅田孝 創設の理念

 

(株)環境開発センターは、それまでの活動成果を集約する社会実践

「強力なプランニングボードの創設を提唱する」(1961(昭36)08)

 初めに/現代は総合を要求している/地域計画のあるべき姿/プランニングボードはなぜ必要か(①地域計画・施設計画は戦略である。②日本の現状は強力な計画の体制を必要としている。)

 次に環境開発センターの創設の理念ですけれども、これは浅田さんがつくられたわけですから、浅田さんが創設の色々なことを考えておられるわけです。先ほど経歴のご説明があった中で、世界デザイン会議というのがありました。1960年日本の建築とか、グラフィックデザイン、インダストリアルデザイン、いろいろなデザインに関わる分野の人たちにとって画期的なことだったのです。デザイン会議が終わって、その前は南極観測隊昭和基地の設計がありますけれども、そういうものが終わって、やっぱり環境開発センターみたいなものをつくらなくちゃならないんじゃないか、ということに達した。要するにそれまでの浅田さんの活動成果を集約するようなかたちで実践として、株式会社環境開発センターができているんだと思います。

 

 で、その内容については「強力なプランニングボードの創設を提唱する」という1961年の8月ですから、会社ができて4ヵ月後になりますけれども、そこで浅田さんが書いた短いパンフレット、当時のガリ版タイプですか、こんなのが残ってます。6ページくらいですね。ここに浅田さんが環境開発センターをつくったエッセンスが全部ここに出ているんだと思うんです。私のメモには目次だけ入れているんですけれども、「初めに」というところで出ているのが、アメリカのMITのカリキュラムの話が出ているんです。これは今まで、たとえば建築とか土木とか、化学とかそういうかたちで学科がずっと色々とできてきたんだけれども、どうも科学技術の発達によって、そういう区分の仕方はあんまり意味がなくなっているんじゃないか、ということで、MITをどういうふうにするか、フォード財団の基金で検討している。その結果4つの分野にまとめたらどうかという提言になっているということで、一つはエネルギー変換、それからもう一つは情報伝達、それから3番目が物質処理、4番目が環境研究。まあこんなかたちでつくったらいいんじゃないかというような提言がある。要するにここから出てくるのは色々な総合性を必要としているというような話になってくるんだと思うんですけれども、そういうことでこの文章が始まっているわけです。

 

 まあざっと言いますと、「現代は総合を要求している」という世界デザイン会議の宣言によって、要するに世界は総合化を求めているというようなことが書いてあります。それから「地域計画のあるべき姿」としては、この当時はコンサルタントとかそういうのはまだあまりないわけですから、実際、どういうかたちで地域計画を作っていたかっていうと、役所の方がちょっと夜、図面書くとか、あるいは大学の研究室なんかも少しはあったかもしれませんけれども、要するにちゃんとした形になっていない。外国では専門家がいて、専門家がちゃんとそういうものを受託して、きちんとした計画を責任もってつくっている。日本はそういうふうになっていないから、やっぱり専門家が活躍できるようにしなければいけないという例としてたとえば、TVA、Tennessee Valley Authority開発計画がある。それからギリシャのドキシアデスという、プランナーがアテネで計画事務所をつくってアテネ工科大学をつくって、国連の低開発地域の開発計画をつくるとかやっているのに、その体制が日本ではできていない。そういう本来の地域計画をつくるような体制をつくるべきだということがその節に書かれています。

 

 「プランニングボードはなぜ必要か」ということではそういう地域計画とか施設計画は戦略であるということです。要するにその当時は例えば、工場なんかをつくるにしても企業が自分のところの工場用地だけをつくるようなかたちになっている。それを戦術といっていたんだと思いますけれども、戦術だけあって、それに対してアクセスする道路とか、工業用水とか、電力とかまあ色々な外部の環境の整備というのが必要なんです。そういうものがなおざりになっていると、要するにそれは総合性が欠けているという話にもなりますので、そういうことで戦略が必要だと。それをちゃんとしないと、その時に例に出ているのはドイツのアウトバーンですね。ドイツはああいうインフラが整備されている。そういうところと日本は本当に太刀打ちできるのかどうか。そういうことで戦略を考えなくてはいけないんではないかと。ということで日本の現状は強力な計画の体制を必要としているということで、これが環境開発センターをつくった所信になっているんだと思います。会社を作るというのは、今の時点ですと、イージーな感じがしますけれども、浅田さんはその会社をつくるということが、よくある金儲けの手段の組織だというようなイメージが全く無くて、きちんと責任を持てる体制の組織にするんだということが非常に強かったようであります。そのあたりが浅田さんが環境開発センターをつくった思想だったということですね。

 

●田村明 プランニングボードの活動イメージ

 

「地域計画機関のあり方について」 (1962(昭37)08)

A 現状において如何なる欠陥があるか/B これから如何なる仕事をすべきか/C 如何なる仕事であるべきか(内容、方法)/D どのようなfeeを請求できるか/E 如何なる組織、人員が必要か

  それがあってつくられて、そのあと二年くらい経ってから田村明さんが入社されたんです。入社される前に香川県の観光計画とか、環境開発センターの仕事を手伝っておられた時期があって、それから正式に入社された。昭和37年8月、入社される半年くらい前ですか、これも先ほど田口さんから紹介ありました「地域計画機関のあり方について」というのを田村さんが書かれている。田村さんはガリバーの日本生命から、社員が何人もいない会社に飛び込んで来られたわけですから、相当覚悟もしていただろうし、やっぱり浅田さんの創設の理念に共鳴して来たんだろうと思います。

 

 そういうふうな状況で入られて、じゃあ自分としてはどういう地域計画機関をつくったらいいか、ということで、やっぱりこれも短い文章ですけれども、これですね。これも8ページぐらいで述べられているんですけれども、これも目次だけ書いてあります。「現状において如何なる欠陥があるか」、要するに計画が計画になってないとか、総合性が無いとか、それからヴィジュアルな計画までちゃんとつくらないといけないとか、当時の問題点が指摘されている。それに対して「これから如何なる仕事をすべきか」「如何なる仕事であるべきか」、これはまさに浅田さんの創設の理念を受けた形で、やっぱり総合的な計画をつくらなくてはいけない。ということで非常に総合性を強調してこれは書かれております。まあそのあたりまでは、田村さんの書かれた本をご覧になるとよく分かると思うんです。

 

 私はやっぱりこの環境開発センターと関連付けて、関心があったのは、この中の一番最後のですね「如何なる組織、人員が必要か」というところなんです。結局どれくらいの組織体制にするかというイメージまで、浅田さんはそこまでは言わない人なんです。田村さんはそこまできちんと言う。最後にそれを言われてるんですけれども、結局プランナーも総合プランナーと専門プランナーと二つに分けて考えられていて、それで専門プランナーというのは、例えば建築、土木、設備、調査、法制―法律ですね、こんなものを挙げている。総合プランナーが5人で、専門プランナーが25人、で30人ぐらい。すると総合プランナーが5人いますから、チームが5つできるわけですね。要するに5つのチームで仕事をやっていくぐらいのつもりで地域計画機関を作ったらいいんじゃないかと。そんなことを考えられていたようです。たぶんそのあたりが当面の田村さんの組織イメージだったんだろうと。

 

 そんなことで「浅田・田村と環境開発センター」のところは終わりにしまして、次は環境開発センターで総合性とプロジェクト主義に関連して、どういうことをやろうとしたか、やっていたかということについて具体的な計画に関連して申し上げたいと思います。

 

2.(株)環境開発センターが目指した活動 ~総合性とプロジェクト主義に関連して

●戦略的な体制

 

*内部組織    社長/秘書/計画部(田村部長)/設計部/事務

         戦略的ヘッドクォーター部門

*外部との連携  建築家・プランナー事務所ネットワーク

         委員会方式

 まず先ほどの浅田さんの創設の理念からも分かるように、環境開発センターについては戦略的な体制をつくるという意図がかなり最初からあったんだと思います。そうすると環境開発センターの内部では、ここで挙げてありますように内部組織として、社長の浅田さんがいて、秘書がいて、それから計画部と設計部があって、計画部の方の部長に田村さんがいらした。私はその下にいた。それから設計部があって、こちらはたぶん浅田さんが兼任ということだったんだろうと思いますけれども、氏家さんがこちらにいらして、あと事務の人がいたと。こんな形の内部組織になっていました。結局こういう組織でやろうとしていたのは、自分のところで仕事を受けてやるというよりも、むしろ戦略的なヘッドクォーター部門といいますか、色々なものを総合化する部分を環境開発センターの中でやるんだと。先ほどの田村さんの提言の中であったような総合プランナーというようなところを中心として、やろうとしたんじゃないかと。それと併せて外部との連携といいますか、特に浅田さんは非常に顔が広い方で、いろいろなところに色々な人を知っていて、ということで今でいったら株式会社で、そんなこと、というぐらいの色々なトップレベルの専門家とか立場の人たちと一緒に仕事をするという体制をこの時はつくれていたんです。そういった建築家・プランナー事務所とのネットワークとか、あるいは委員会方式とか、こういう色々なかたちを使いながら、そういう外部との連携によって、環境開発センターが総合的なヘッドクォーター部門となる。そういうことで新しい社会をつくっていくような仕組みをできないかという、そういうかたちで進めていったということだと思います。当時としては非常にユニークなイメージだったんじゃないかと思います。

 

●明確なトータルイメージ ~ 計画の市民化への重要な要素

 

*明快な目標イメージの提示

 ~横浜六大事業、鹿島工業地域ゴールデン・トライアングル

*明快なビジュアルイメージの提示

 それから次のページに行きます。環境開発センターで提案したことで、私は非常に大事なことじゃないかと思っているものですから、ここに挙げたんですけれども、浅田さんが非常にデザイン的なイメージのクリアな方だったものですから、提案する内容が非常に明確なトータルイメージを持っていたんだと思うんです。その当時はまだ市民運動とかあまり無かった時代なんですが、今になってみてもやっぱりこういう非常に明確なイメージを提案するということは計画を市民化させるうえで非常に重要な要素になるんじゃないかと私は思いますから、そういう意味では非常に効果があったんじゃないかと。ユニークな活動だったんじゃないかと思うんです。

 

 その内容は二つ挙げてますけれども、一つは地域の将来像を明確に打ち出した。それは例えば横浜の六大事業なんかも、はっきりそうで。それからここで挙げてますのは、鹿島工業地帯のゴールデントライアングルということで挙げておりますけれども、これは鹿島臨海工業地帯の整備計画を受託したことが当時あったんですけれども、鹿島の掘り込み港湾と併せてコンビナートをつくるという計画を進める。その計画を作っているんですけれども、それを飛び越した地域イメージを提案している。鹿島臨海工業地帯とそれから水戸の東海村の原子力施設地区一帯と、それから筑波の研究学園都市と、この3つでゴールデントライアングルをつくって、1つの地域だけじゃなくて、3つ連携して1つの知的なというか高度な機能集団を、地帯をつくっていく。それを成田空港と結び合わせることによって、成田から世界と提携できるようなそういう形の構造をつくったらいいんじゃないかと。それは受託した計画とはかなり離れたもっと上位のイメージなんですけれども、そういうイメージを提出するということが、非常に地域像を明確にしたんじゃないかと。

 

 そういう明確なイメージを出したというのと、もう一つはそれをビジュアルに表現した。このビジュアルに表現する、実際にデザインをしてくれたのは粟津潔さんが一番多かった。5年ほど前亡くなられましたけれども。これも横浜の場合に工業と住宅と、港湾があって、この上に国際文化管理都市ということで、横浜市の将来像をグラフィックなイメージにしている。それから6大事業も玉が6つあって、こうやって結んで行って相互に関連しているんだということを、要するにそういうことをビジュアルに見せたということが非常にやっぱり大きい意味があったんじゃないかと思います。これは横浜だけじゃなくて、東京都の構想でもそうでしたし、それから香川県でも五色台のマークなんかは非常にそのマーク自体が訴える力があったんじゃないかと。そういう意味では非常に明確なイメージを出していたというところが一つの特色だったんじゃないかという感じがしております。

●総合的な視点

 

近畿万国博覧会構想に関する研究報告(その1) 大阪府 1965.3.10

 地域開発~主要観光拠点の整備、

 跡地利用~近畿圏における学術文化中心

堺・泉北臨海工業地帯環境整備に関する基本調査・研究 大阪府 1965.6

 総論と環境整備の11項目、計画策定体制、付属資料の時代的意義

 「ニューヨーク港とその水際地域の運営」

 「Stanford Industrial Park」(⇒シリコンバレー)

 次は、総合的な視点ということで、二つほど挙げておりますけれども、一つは「近畿万国博覧会構想に関する研究報告」、1965年の3月。これは大阪府が万博を招致しようとして、パリに国際本部が確かあるんですけれども、そこで万博を開いてもいいというお墨付きができて、日本の開催が決まる。そのパリの本部に提出する資料をつくるという調査の委託だったんですね。発注者は大阪府なんですけれども、そこの中で、これは発注者が何を頼んだかということとも関連するんで、すべてが環境開発センターの方のオリジナルかどうかという点は、まあちょっと検討する余地があるかと思うんですけれども、少なくとも私やっぱりユニークだと思っているのは、万国博が開かれると来場者が当然沢山になるわけですから、そういうかたちに対して近畿、要するに関西の地域全体のレベルアップといいますか、活性化というか、そういうことを図る必要があるんじゃないかと。そのために地域開発あるいは主要観光拠点の整備を進めていくということが必要だろうということで、例えば奈良とか京都とか、瀬戸内海とか紀伊半島とか、色々なところの地域開発、地域整備をやっていく必要があるという提言をしているわけです。

 

 それからもう一つ、これはまだその万博を開くということが決まってもいない時点の話なんですけれども、既に会場の跡地利用をどうするかということをここで提言している。近畿圏における学術文化中心ということで、近畿圏の地域構造がどうかと。要するに北の方に都市が発展していくというような状況だったようなんですけれども、そうするとこの万博の会場がどういう位置づけになるかを検討したうえで、跡地利用どうするかという提言をされている。少なくとも大阪府がまだ決まってもいない万博の跡地利用のことを頼むということはたぶんありえないと思うので、これは環境開発センターが提言したオリジナルの内容じゃないかという感じがしております。

 

 それから「堺・泉北臨海工業地帯環境整備に関する基本調査・研究」、これも大阪府の企業局なんですけれども、大阪府の東側ということになると思いますけれども、堺市とかそれから高石町(注:1966年に市制施行、高石市となる)とかあのあたり一帯ですけれども、大体2000ヘクタールだと思うんです。ちょうどもう造成工事が進んでいる途中の段階で、こういう調査を受けてるんですけれども、委託の項目が、環境開発から言うと受託の項目が、環境整備に関する11項目ということになっていました。その11項目というのが例えば、交差点計画をどうするかとか、それから公共用地の余っているところをどう利用するかとか、それから緑地帯、標識、まあそんなものを11項目検討するということになっていたんです。この堺・泉北については、田村さんが全体をプロデュースして自分でまとめられております。

 

 近畿万博は浅田さんのイメージがかなり強かったような記憶がありますけれども。堺・泉北の方はこういう調査報告書をまとめるにあたって、発注者の11項目についてはもちろん全部答えてるんですけれども、その前に総論が入っているんです。ここの総論の部分がやっぱり田村さんの総合性に関する内容だと思うんですけれども、堺・泉北工業地帯は周辺地域との関係が非常に強いんだというようなことをまず言ってるんですね。それは交通問題もありますし、色々な供給処理の問題なんかもありますし、物流の話もあるし、色々あるんですけれども、要するに我々はこの11項目に対して答えてるんだけど、全体としてはそういう大きな問題があると。それからもう一つは環境整備の11項目というのはかなりこの、大阪府なり公共に関わるような部分についての調査なんですけれども、実際は個別の企業の用地の中の問題もあって、それも本当はちゃんと環境の問題を考えなくてはいけないと。要するに一番最初私が言いましたような全体はどこかという話をされた。そこの中でこっちはこうで、こっちは企業の問題になって、その中間のここについて我々は答えてるんだけれども、全体がありますよと。そういう話が総論として頭にあるということがやっぱりユニークだったんじゃないかと。

 

 それからもう一つは計画の策定の体制で、これは先ほどちょっと言いましたように、外部の色々な調査機関とか、そういうところをフルに活用されています。具体的に2,3上げますと、槇設計事務所が参加されてますし、それから黒川紀章さんもこの時入ってます。槇さんはこの調査が終わってから11項目の中の1つである臨海関連業務を入れるビルを設計して、臨海センターという名前だと思いますけれども、それが建って今も現在活動しております。そういう計画策定の体制のネットワークをつくって、それでこう進めていた。それがもう一つの特徴だろうと思います。

 

 それからもう一つ、これは私は現物を見てないんで、今回調べてみて分かった、非常に印象的だったんですけれども、付属資料としてこの二つを挙げてるんです。一つは「ニューヨーク港とその水際地域の運営」、それからもう一つは「Stanford Industrial Parkについて」、この二つが付属資料としてついております。これは1965年ですから、この当時にしてみれば非常に先端的な付属資料だったんじゃないかと私は思うんです。ニューヨーク港とこの資料につきましては、ポート・オーソリティのことがたぶん入っているんだと思うんです。私は資料そのものを見ていないんで何とも言えませんけど、ポート・オーソリティっていうのはまさに総合性に関わる話で、都道府県で港湾を区切って、それぞれに自分で管理してるというそういうことに非合理性があるのです。そういうところが色々とあって、堺・泉北においてもポート・オーソリティの実現を提言しています。それから東京でもそれを取り上げてますし、横浜でも実は環境開発センターのレポートの中でポート・オーソリティのことは触れていたと思います。特にその当時、まあ今もそうかと思うんですけれども、ニューヨークのポート・オーソリティというのが空港とかトンネルとか、そういうことまで含めて、今も9.11の跡地の利用の話なんかで出てきますけれども、そういう広域的な管理運営体制の合理化ということについてこれは特に浅田さんが非常に関心持っていたようですけれども、ずっと主張している中の一部だろうと思うんです。そういう点で時代的な意義があったんじゃないかと思います。

 

 それからStanford Industrial Parkについては、これはたぶんできた直後ぐらいだったと思うんですけれども、Industrial Parkとして紹介している。実際は要するに環境が整備された工業団地をつくると、いう話なんですけれども、シリコンバレーの一番最初がこれですよね。Stanford Industrial Parkをつくって、これが周辺地域に滲み出していって、シリコンバレーになったんだと。そこまで予見してたかどうかは分かりませんけれども、そういう意味では非常に時代的な意義があるんだと思うんです。

 

●動態的アプローチ

 

鹿島工業都市圏環境整備計画報告書 茨城県 1964.3

<地域開発計画の問題点>

生産面のかたより/具体的な開発計画の不足~物的計画につながる段階をことに重視/総合的計画の未熟/計画のギャップ~コントロール機関の不在/計画の脆弱性~具体的な情勢変化をリードするプログラムが必要

 次は「動態的なアプローチ」、浅田さんなり環境開発センターについてはプロジェクト主義という言い方もされてますけれども、私はやっぱりプロジェクト主義ではなくて、動態的なアプローチだったんじゃないかというふうに思っているものですから、こういうふうに書いています。要するにプロジェクトというのがアプリオリにあったわけじゃなくて、その地域の課題を解決していこうとすると、プロジェクトが出てきたり、あるいは動態的なアプローチになったりということになるんじゃないかと思ってこういうふうに書いた訳です。鹿島工業都市圏の環境整備計画報告書、広域的なイメージについて先ほどちょっとゴールデントライアングルのところで申し上げましたけれども、この報告書の一番最初のところに、地域開発計画の問題点ということで、こういうことが書かれています。今の工業開発というのは、生産面への偏りが強いと。それはやっぱりまずいんじゃないかと言っているわけですね。具体的な開発計画の不足ということで、これは経済計画とか社会計画とか、そういうのがあって、それを具体的にどうフィジカルなところに落とし込んでいくかという開発計画が非常に不足している。そういう物的な計画につながる段階を特に重視しておく必要があるんじゃないかというふうにしています。それから総合的な計画がまだ未熟である。計画のギャップ、これはそれぞれの機関がそれぞれに計画をつくっているんだけれども、それが整合性がなくて、コントロールする機関が無い。そんな問題があるんではないかと。そういうことで計画の脆弱性、要するに具体的な状況変化をリードするようなプログラムが必要になってくる。ということで、こういう地域開発をする必要があると、一番最初にこれを書かれているんです。そのあたりが総合性であり、動態的なアプローチとして、こういうことを考える必要があるんだという提言だったんだろうと思います。

 

●新しい時代の予見

 

子ども=こどもの国、五色台/福祉/市民参加/住居表示=地区計画/総合性の担保=三公の原則(公平、公共、公開)

 それから次は、これは受託業務じゃないんですけれども、やっぱり環境開発センターといいますか、浅田さんの思想についてちょっとここで聞いていただきたいと思って挙げたんですけれども、新しい時代の予見をしていた。当時から見て今でも十分通用するようなことをちゃんと言われてるんです。今われわれが考えて、50年先に通用するようなことを言えるかというと、私なんかとてもじゃないけれども、考えることもできないんですけれども、そういうことをその当時に言ってたんだということをちょっと聞いていただきたいと思ってこれ書いたんです。

 

 子どもに対する、要するに、子どもをただ遊ばせるとか、そういうことではなくて、こどもの国の設計プロデュースなんかされてるんです。これは最初は新宿の戸山ヶ原のところに候補が決まりそうな状況だったんだそうですけれども、やっぱりあんなところではなくて、もっと子どもを自然の中で遊ばせる必要があるだろうということで、色々と土地を探して、その時に今の横浜の場所を探されたんです。そこは当時米軍がつかっている接収地だった。それを具体的に誰がどう動いたか分かりませんけれども、朝日新聞社の人、笠信太郎さんが非常にバックアップしてくれたと浅田さん書いてますけれども、私がちょっと聞いた話では、国際文化会館の松本重治さんという館長さんが非常に日米関係の日本側の重要なパイプになった人だと思うんですけれども、その方がラスク国務長官に親書を送ってくれて、それで米軍が現に使っている接収地をとにかく空けてもらって今の場所に決まった。100ヘクタールですかね。そういうプロセスまで浅田さんはどうも噛んでるみたいなんです。そういうことをやったうえで、こどもの国のマスタープランをつくった。そんな子どもに対する設計思想まで含めて非常に配慮されていたんだなと思うんです。

 

 それから福祉についても一番最初申し上げましたけれども、要するにただ福祉をやればいいとかいうことではない。色々な障害をもっている人の生きがいをどう実現していくべきかということについて、この当時非常に優れた文章を書かれてます。それから市民参加についても、これもただ参加するとかいうことではなくて、人間性の回復といいますか、解放といいますか、そういうことの一つの形として市民参加はあるんだということを言われているんです。それぞれにそういう文章が残っていて、単に福祉・住民参加じゃないんだというようなことをちゃんと書かれていることで感銘を受けるような文章になっています。

 

 次は住居表示なんですけれども、これは当時の自治省に住居表示制度審議会があって、地番整理をするための法律をつくってそれを実施するための審議会があった。そこに浅田さんは委員として入ったんですけれども、非常にその問題、住居表示の問題について熱心だったんですね。後になって私なんか気がついたんですけれども、住居表示の問題というのは、ミクロなまちづくりの話そのものなんですね。だから浅田さんの関心は住居表示そのものというよりも、そういう地区レベルの問題をどう考えていくかということで非常に熱心だったんじゃないかという感じがします。それはまさに地区計画を包含する話だったんじゃないかという感じがしております。

 

 それから総合性の担保、これは総合性を担保するものは三公の原則だということで言ってるんですけれども、公平性、公共性、公開性。これをきちんとすることによって総合性が担保されるんだと。というようなことを言われていて、まあこんなところが私はやっぱり、非常に先が見えていたんだなというような感じがしております。

 

3.横浜のまちづくり構想の誕生

●横浜の将来計画に関する基礎調査報告書(昭和39年12月5日)

 

*都市の骨格を創る

○明治以後100年の国民のストックは貧困であり、六大事業は自治体のストック形成、戦略的プランニングの問題

○法定都市計画は、都市の骨格づくりを総合的に実現するものではない。六大事業は、長期に亘る地域社会の骨格的なストックを総合的に形成する基幹的事業

*ジェネレイティング・システム(生成システム)

○いくつかのサブシステムをうまく構成して、内挿しておくと、それがやがて全体のシステムに影響を及ぼす自立性をだんだん持って来る

 最後に「横浜の街づくり構想の誕生」ということで、ちょっと話させていただきますけれども、先ほどもご紹介ありましたように、六大事業の元になった、環境開発センターの報告書が「横浜市将来計画に関する基礎調査報告書」というもので、これはここの中で六大事業、この当時は7つだったわけですけれども、後に横浜市が六大事業ということで整理された、それが入っている報告書です。これについて、これも報告書そのものは田村さんがほとんど作られたと思うんですけれども、浅田さんもかなり色々議論はしていると思います。SDという雑誌がありましたけれども、浅田さんがそこのインタビューに答えているんですけれども、結局六大事業というのは「明治以後100年の国民のストックは貧困であり、六大事業は自治体のストック形成、戦略的プランニングの問題」であると。要するにここで言っていたのはストックが貧困だと、どうも人間が落ち着いて生活できないような、状況が出てくるんじゃないかと。普通の市民生活を安定させるために、ストックをつくっておくというのは非常に重要なことで、そのストックを今まで明治100年つくってこなかったと。それをどうやって作っていくかということが、極めて重要で、そのために6大事業という形で戦略的に作ったらどうですかという提案だったんだと思います。

 

 次は「法定都市計画は、都市の骨格づくりを総合的に実現するものではない。」これはプロジェクト方式とか色々とやっていることの背景として、法定都市計画では街は動かない、そういうことをここで言っているわけです。「六大事業は、長期に亘る地域社会の骨格的なストックを総合的に形成する基幹的事業」なんだ、ということです。

 

 それからもう一つ、これは違う側面になるかと思うんですけれども、この当時ジェネレイティング・システム、生成システムということを浅田さんはしきりに言っていたんです。私は、新全国総合開発計画、新全総と言われたもののなかで、はじめて生成システムという言葉を知ったものですから、下河辺さんが考えた概念かなと思っていたんですけれど、浅田さんが新全総の計画策定の時に委員か何かで入っていて、使われたのかなという感じが今はしております。これはどういうことかという説明があるんですけれども、「いくつかのサブシステムをうまく構成して、内挿しておくと、それがやがて全体のシステムに影響を及ぼす自立性をだんだん持って来る」要するに横浜の六大事業を線でこう結んでいるダイヤグラムがありますけれども、あれは事業相互にどうやって影響を及ぼして、それがどういう展開を招くかというようなことを実は中に含ませてあるようなシステム図だったんだということだろうと思います。そういうかたちでこの報告書が横浜市に提出されたんですけれども、それが12月5日で、これの前から何回か、横浜市との打ち合わせ会議があって、たぶん飛鳥田市長も出ていらした会議でも、途中で調整がかなり進んでいたんだと思います。それをまとめたものが12月で、翌年昭和40年の2月に市長が「都市づくりの将来計画の構想」として、この六大事業の内容を議会で公表しています。

 

●「横浜の都市づくり~市民がつくる横浜の未来」(昭和40年10月1日)

 「横浜の都市づくり~市民がつくる横浜の未来」はその年の10月に出ているんですけれども、私はやっぱりこれは非常にこの当時、ユニークだし意味のあるものだったんだと、思うのです。要するに市民に向けて、こういう計画をつくっていくということを、できるだけ分かりやすく説明した非常に魅力的な挿絵があり、これも粟津さんがデザインされて、クリアなイメージがいたるところに中に入っている。そういうものをつくった。ここまで出来てやっぱり六大事業といいますか、横浜市のまちづくりが軌道にのっていくということになったんじゃないかという感じがしております。

 

●田村明 人的資産・構想策定プロセスのすべてを携えて横浜市へ

 そういう経過があって、田村さんが横浜に行かれたわけなんです。横浜市はその当時は色々な方が外部から入られた。例えば廣瀬良一さんとか、それから内藤惇之さんもそういう感じですけれども、あと岩崎駿介さんとか、そういう色々な素晴らしい方が入られた。もちろん田村さんもそうなんですけれども、他の方と違っていたのがこの二つじゃないかと私は思うんです。一つは環境開発センターで、浅田さんがメタボリズムの人たちといっぱい付き合っていて、田村さんもだんだん例えば、人工土地の問題とか、そういうのを通じて色々なユニークな人たち、外部の人たちとのネットワークはかなりできていた。それを持って横浜市に入ったっていうのと、それからもう一つはこの構想を作るときに浅田さんと相当議論していたはずなんですけれども、浅田さんはじめ、色々なスタッフの人とか、そういうこのヴィジョンをつくるまでのプロセスを全部理解して、ノウハウを持って横浜市に入った。結局こういう知識っていうのは人が持っていくものだと思うんですけれども、そういうものを持って横浜市に入ったことがその後の横浜市の色々な事業の展開にずいぶん大きな影響を及ぼした。長くなったのかもしれませんが、以上で話題提供ということで終わらせていただきます。どうもありがとうございました。