「田村明の背景にあるもの」(NPO法人理事長・田村千尋)

1)純粋培養されたアメリカ式キリスト教文化

 母方の祖母(1853~1934、まち*いみじくも音では「まちづくり」の「まち」)の家は比較的、豊かな新潟の油問屋だったが石油の台頭で破産、追いかけるように祖母の母も他界、失意の中、叔父の助けを得、新潟のキリスト教会を訪れる。そこのパーム牧師に彼女の才覚を認められ横浜共立女子校での勉強を勧められる。明治初期のミショナリーは全寮制、アメリカ式女子教育法の中に彼女は浸った(1877)。後、牧師に勧められ、同じ教会にいた吉田亀太郎と結婚、亀太郎の東北開拓伝道師の妻として苦難を共にすることになる。

田村千尋理事長の発表

 母(忠子1892~1990)はその末っ子、祖母と同じ横浜共立女子校の寮生活(1913)のユニークな価値観を身につけた。一方、父方の祖父は宮大工だったが棟から落下、死亡した。このため父(幸太郎1889~1961)は生まれると直ぐ養子にやられた。青年期にその養父母が離婚し、若くして独立せざるを得なくなる。生活する上でも精神的にも大きな苦悩を負い、行き場を失い散策して、たまたま見つけた村上キリスト教会に入る。そこに心の支えを得て自分を取り戻した。さらに教会で知己になった紅松氏に誘われ、上海の居留地で生活するという得難い経験をした。そこは欧米型の生活空間や考え方があり、大きな影響を受けた。日本に帰国し、「きざ」と言われる程の雰囲気を醸し出していたと母は語る。しかし、しばらくして内村鑑三の集会に出席する様になった父の表情も考え方も大転換をする。「人が変わったようだ」と祖父母にいわせ、二人は思わぬ経緯で結婚した。


 改めて初代の田村家を見ると母からすればそこには「お家制度」的な日本文化は無く、また嫁舅の関係も無かった。従って、母は祖母「まち」の思想を受け、また同根の教育環境で育った自分、二つの思想をかけ算したような新家庭を作ることになった。「洗濯の出来るシーツを上下に敷いたものにしたい」と実行。私の少年時代でも寝床には「どてら」が主流、まして大正の中頃、それが如何に斬新なものだったか。食事も長円型のテーブルと椅子だった。明の大テーブル方式の原型かも知れない。経済的に決して豊かでないが現代日本の先駆けのような構図だったと思う。一方、父は生みの親を知らず、育ての親にも裏切られ、妻の両親が始めて与えられた本当の父母のように慕わしかった。事実、祖父、吉田亀太郎が病に倒れ病床に伏した時、実の子のように寄り添い、祖父との会話、訪れる人との会話を記録した。一年後、編集代表者として追悼集を編集、父の文面に「岳父は東北開拓伝道師として、葦原のくに行き、そこでの活動を通して東北を恋人のように思いつつ、何時も磁石のように北を向いていた」という趣旨の文がある。父は自分の故郷、村上(市)も東北の一部としたかったのだろう、地図では村上は東京の真北に位置する。


 田村明はとりわけ母への思いは深く、母から聴いた話を小冊「歌いつつ歩まん*」に纏めた。彼は母が逝った後、悲しみを乗り越える為、一ヶ月でこれを仕上げ、心の整理をした。思えば、明の生涯も鋭い感性と豊富な知識で人との関係に協調と対峙を繰り返した。この冊子の中身を読むにつけ、母親の生き様、或いは母親像に通づる所がある。母が良き理解者だったという事でもあろうか。*祖母、「まち」の大好きだった賛美歌の曲名、毎朝、賛美歌の弾き語りをした。その日も、この曲を歌っているとき突然倒れたという。

2)製図板とその周辺

 建築学科に入ると製図という授業がある。広い全紙大の製図板にトレーシングペーパーを張って作図する。明がこれを買ってもらった時はとても嬉しそうだったことを私は覚えている。彼の部屋は6畳間だったが、既に本棚で周辺が埋められ、実質、4畳半、それにベッドと自分の机を置くと歩ける床は少し見えるだけだった。自分の小さな机の上に製図板を置いてみると、机から外に一杯はみ出てベッドの上まで出っ張る、しかし、椅子に座ってみると作業空間は今まで感じたことのない広さがあり、自分の部屋がいろいろなもので埋まり隅の方の一角に押し込まれる様にして勉強していたのが、この製図板一つで部屋全部が自分の作業場という感覚になったと感じただろう(彼が居ないときに座った私の感想であり、机の上に置かれた製図板がうらやましかたった思い出でもある)。そして、それが明の「物事のとらえ方」に一種の飛躍を与えた時だったのではないかと思う。


 彼がこの製図板を使って烏口に墨を入れ、本格的な図面を書いていた姿を見たのは最初の頃、ほんの数枚である。製図板を広い勉強のための空間として使っていた。後に横浜市に入ってから「大テーブル主義」と称する会議形式を打ち出したが、私はその原型は食卓の丸テーブルとこの製図板ではないかと思っている。場としての大テーブルは大きな議題(テーマ)の象徴的な意味であり、その前では全員が平等な立場で発言出来る、という心理状態を醸造させ、参加者はそれぞれの立場で会議の中身に参加し、考え方の提案と批評、は実務的に平等であるという感覚が生まれる。明はこれに「協働と実践」という語を配して説明している。ある仕事に対して、全員の共同作業であり、それぞれの専門性が最大限に活かされる、という意識改革を目指した。ひるがえって明が新しい職場でまだ権限も定かでない時に、最も有効で求心的に働く手法として考えついたものであり、それも説明的でなくone phraseで表現した明の知恵だったのだろう。


<明が自分で説明する大テーブル主義>

 この大テーブルは、どのような戦略性と、それに基づく戦術を誰がどのようにして行うかと言う戦略テーブルになる。それを出来るだけ参加者共通の理解しやすい形で示せるのがミソだ。   

 初めは人数も少なかったので、全員で毎週全体会議を開いた。目標会議ともいう。組織も大勢になってからは、月に一度になったが、ここでは原則として、係長・課員という実際にことに当たっている人々が、これまで何をやってきて、これからどういう方法で何を目標にて行くかを発表する。係員⇒係長⇒課長⇒部長⇒と言う順序を経ないで、係員は直接に自分のやっている事を話す。そのほうが余計な歪がかからなくて良いし、担当している人々も責任を自覚し自信を持てる。ただし報告時間は一人一分。それくらいに集約できる問題把握し発表できるための訓練でもある。私が質問しコメントをだす。方向や方法が間違っていては困る。そして次の目標を確認する。企画調整にはいわゆるルーティンという決った仕事はない。問題をそれぞれが把握しておかないとどこへ行くか分からない


 私は明のイメージにさらに次の二つに接点を感じる。一つは東京大空襲後の焼け野原の航空写真、もう一つは人生後半での写真集の中にある相当数の歩道のパターンである。前者については、戦後比較的早い時期に新聞にのったので明は見ているはずだ。改めて建築学を志す意味を感じたたのはないだろうか。後者のパターンは訪れたチェコのプラハ歩道に描かれた割栗石の模様に触発されたと聞く。これにより横浜市の道路埋め込み型の道先案内を思いついたという。いずれも斜めに見下ろし、その角度、30度強、少し下向きで「人がものを考える」「本を読む」ときの姿である。私の推測だが、この時、人は一番良い状態で思考回路が働き、人の目に映った映像を脳内では有効に処理しているのではないだろうか。なお、ロダンの「考える人」は40度以上ある、こうなると、私には彼が困っている時、矛盾を一杯抱え、ストレスが一杯あるような状態のように見える。それにしても横浜の道先案内、今はあまり目を向けられていないのは残念だ。

左)焦土と化した東京隅田川周辺の航空写真(米軍記録1945)

右)明はプラハには1963と1986に訪れている。この写真は1986のものである。従って横浜市の道路埋め込み型道先案内になったものは彼の脳裏にあったものであろう。二度目の訪問で改めて確認する気持ちで記録したのだろう。