「田村の家族たち」 (田村千尋)

田村明というのはある世界では有名になったといえるかもしれません。しかしそこには、知名度が上がることでかえってその人の内面が見えなくなるという反比例的な関係もあります。要するに家族のお話をすることによって、田村明の周辺ないしは内面が浮き彫りになる、そしてその内面が田村明の行動原理になっていったんではないかと考えているわけです。

 

「田村明―周辺の紹介」

 

まちづくりというのが、彼の生涯のテーマとなりました。しかし、まちづくりということをやるためには、市民性というもっと基本的な問題から解決していかなければなりません。つまりそこには思想の展開、そしてその背景と真相があったのではないかと考えているわけです。家族自身のことを具体的に言うと私の両親、祖父母はキリスト教徒でした。ご存じの方もいらっしゃると思いますが、戦前から戦中にかけてキリスト教文化というのは大変な圧迫を受けており、我が家もその圧迫を受けていたという思いがあります。そのことと田村明は切っても切れない関係にあるし、彼自身がどこでキリスト教を語って、どこでキリスト教を語らなかったか、そういうこととも関連してくるのです。

田村明の祖父・田村幸次郎は宮大工でしたが、仕事中に転落し亡くなりました。そのため、息子の幸太郎(明の父)は実の母親を知らないまま、梅津家というところで養父に育てられます。梅津家は西洋散髪屋を営んでおり、金回りもよいところだったようです。そのおかげで幸太郎は当時としては珍しく中学にまで進むことができました。ところが、青春期に家庭の騒動があり、幸太郎は梅津家を出て、あらためて田村姓を名乗ることになりました。当時、18,9の青年が両親の離別ということを経験したわけで、幸太郎は迷いに迷い、やがてキリスト教村上教会に通うようになります。そして、そこで出会った友達の縁で幸太郎は上海に行く機会を得たのです。そして幸太郎はのちの妻・忠子の姉である愛子と遭遇します。この出会いをきっかけとして幸太郎は忠子の系統の人と触れ合うことになります。そして、その後いろいろとあって、幸太郎は内村鑑三の会に出るようになり、そこから教会の世界に入り込むようになったわけであります。

 

忠子(明の母)の父・吉田亀太郎の隣の家にはパーム牧師が住んでおり、亀太郎はパーム牧師に「牧師にならないか?」と誘われ、素直に牧師になりました。一方、忠子の母・石黒まちは油問屋の娘でしたが、家の倒産があって、たまたまそこにあったキリスト教新潟教会に通うようになりました。そこでパーム牧師と出会い、牧師の助言で横浜の共立女子に進学しました。

 

亀太郎とまちの二人はちょうどよい年頃になると結婚し、さらにパーム牧師は亀太郎に東北開拓伝道師となることを指示しました。5女として生まれた忠子は相馬中村で小学校に入るまでの日々を過ごしますが、そこにはキリスト教を受け入れる土壌がなかったため、小学校では石を投げられるなど、激しいイジメを受けたそうです。その後、浦和教会に移り、音楽が好きだった忠子はオルガンで讃美歌の伴奏などをしていました。

 

上海で愛子が怪我をすると、幸太郎がその報告をしに、吉田家にやってきました。上海帰りの幸太郎はキザっぽい青年で、当時は吉田家に受け入れられていなかったようですが、彼は内村鑑三と出会い、心向きが変わったそうです。その後、愛子とその夫・寶田一蔵が仲人となり、幸太郎と忠子は結婚することになりました。

 

幸太郎と忠子は1920年に結婚、4人の子供が順番に生まれます。忠幸、義也、明、千尋、2年、3年、4年の間隔で生まれました。ちょうどその頃は株価大暴落、関東大震災、世界大恐慌があり、世の中が騒然としている時代でした。この騒然とした時代に4人の男の子を育てなければならないということで、財政的な問題を含め大変だったと思います。

 

第二次大戦がはじまると、上の忠幸、義也はすぐ兵役の問題があり、ここで忠子は非常に悩み、悲しみます。そういう状況を見ていた明は、「自分は戦争で死にたくない」という思いで、なんとしても理科系に行きたいと。彼自身理科が好きだったことは間違いがないのですが、それで静岡高校の理系を受けることになったわけです。戦争中は大変なもので、焼夷弾と爆弾、それから憲兵隊の監察、幸太郎がキリスト教徒だったということもあり、家の周辺を憲兵が何回かうろうろしていたということも覚えています。

 

戦争が終わると幸太郎を含めて、皆仕事が無くなってしまいます。何もすることが無い中で、忠子はGHQパークホテルでメードのリーダーを務めました。また幸太郎はCCDで翻訳をするなどして、何とかお金を貯めました。ただ、1949年に忠子が草月流の師範をするようになると生活はかなりよくなりました。

 

さらに戦争が終わった後、幸太郎、忠子、忠幸、明、千尋の5人は矢内原忠雄の聖書講義に参加します。明が大阪に行ったときは黒崎幸吉の聖書講義に参加しました。

 

1961年、幸太郎が他界しました。その後、明は環境開発から横浜市へ行くようになり、私(千尋)はフグ毒のテトロドトキシンの化学構造を決めることができました。義也は雑誌「世界」の編集長になりましたが、二度も辞表を書いていて、大変義侠心の富んだ兄貴だったと思います。一方、明の方は横浜市の企画調整局に入りまして、皆さんご承知のように世界がどんどん開けていく。最終的にはまちづくり協会、横浜街づくり塾、現代街づくり塾、こういったものができる。というわけで我々家族の中には「『展開』と『実り』の時代」が訪れたということになろうかと思います。

 

1962年から86年にかけて、幸太郎がいなくなってから、母・忠子を中心に忠幸、明、千尋の三人が聖書を読んで、その解説をするという家庭集会を毎月やっていました。そんな中、1975年に私(千尋)の次男・幸生が他界します。ちょっと体が弱かったんですね。それで私は内村鑑三から矢内原忠雄の無教会の流れにいたということで、そこは教会的な儀式も何もない世界なんですね。したがって、何かがあったときに周りの人がみんなでやってあげないといけない。この時に明が中心となって幸生君を天国に送るということで「田村幸生くんとのおわかれの会」を開いてくれました。

 

私が信仰ということについて一つだけ申し上げたいと思ったのは、横浜時代以降、明が「祈り」というのを一切封じてしまったように思うということです。人類が発祥してから、祈祷師をはじめとした祈りの姿というのは古代の人たちの世界の中には必ずあったと思われますが、その祈りというのは現代の世界の中では消えてしまっています。それを彼はあえて消したのか、あるいはもっと他の事を言いたいけれど、「祈り」という言葉では伝えられないぞ、という意図があったのか。これを私は田村明の内面を探るという意味で、今後研究をしていきたいと思っています。