「主催者あいさつ」(田村千尋・NPO法人理事長)

 皆さまこんにちは。NPO法人の理事長を務めさせていただいております、田村千尋でございます。本日は多数の方のご参加をいただき、また遠いところからもお越しいただきありがとうございました。こうして田村明のことを想い出し、また彼からのメッセージを新ためて考えるという企画にご賛同いただきましてありがとうございました。

田村千尋理事長の発表

 田村明は、今から6年前、2010年の1月に、天に召されましたが、その年の4月3日の日曜日に記念の「田村明を偲ぶ会」を持ちました。今日は4月3日の日曜日、同じ日、曜日でございます。6年前の偲ぶ会には沢山の方がご参集いただき感謝でございましたが。その翌年1年目に記念祭を企画し実行寸前に例の大震災がありまして中止せざるをえなくなりました。従ってこの会は記念祭という形で田村明を考える初めての会になりました。

 

 眞生子姉は明が生前「今まで書いてきたもの、随筆、小論文的なもの、時に広域な意見など、何らかの形でまとめたい」と話していた、と申しておりました。義姉はこの明の思いを実現するには鈴木伸治先生にお願いするのがベストと考え、お話し致しました所、ご快諾を頂いた、との事でした。この本は田村明に親しかった皆様にさしあげたい、義姉の考えでございます。そして今回の記念祭に何とか間に合わせて出版したいと考え、多くの方のご尽力を得て実現の運びとなりました。もう一つ、今回お話し頂ける蓑原先生は明の生前でのおつきあいで御座いましたが、眞生子義姉の実妹、佳與子さんと大学での同窓生だったとのことで何かとお親しくお付き合いさせていただいていた、とのことです。お話ししやすく、眞生子姉は直接、蓑原先生にお願いをいたし快諾頂いたという次第でした。

 

 次はNPO法人の結成に至った経緯と、この会がやってきた中身のご報告でございます。丁度、NPO設立1年周年記念という名目にあわせ、成果物としてご披露させていただければと考えました。まず、経緯です。明は自然や人類が作ってきた文明に生涯、興味と感心を持ち続けました。横浜での仕事を終えてからは、大学で教壇に立つ傍ら、広く世界134か国を旅し、沢山のスライドを撮ってまいりました。その数、数十万枚でございまして、彼が亡くなった後、この取り扱いに戸惑いました。旅行の後半は記録もなく、スライドにしたまま袋に入っていたもの、行先も何も書いてないものも相当数ありまして、記録のないのは捨ててしまう、という案までありました。私には明が世界の国を巡り歩いた撮った数十万枚は彼の足跡というだけでなく、その時、その場での記録として意味があるものではないかと感じておりました。何人かの方にご意見を頂戴しているうち、田口俊夫さんが「私は田村明が研究したい、海外に向けて発表したい、スライドもその一部です」と言われました。私はこれに大変、感動致しまして何とか実現したいと思うようになりました。眞生子姉に相談しましたところ「明のことを考えてくださる方がおられるのは嬉しい、ぜひご協力をしたい」という話になったのです。その後、何人かの方のご協力、ご賛同を得て本研究会の形が整えられ、また、作業もしてまいりました。田村明流の仕事とは何か、何が彼を動かしたか、どうしてその道を発見したか、その仕掛け、仕方、考え方を調べ何となく見えてくるものが御座いました。この研究をより継続性のある形にしたい、地に足をつけた仕事を進めたい、と考えNPO法人の形をとるべきだと結論づけました。なれない手続きの山坂を乗り超え昨年、このNPO法人を発足、ちょうど1年になります。その間、田口さんのご努力で「みなとみらい21開発の経緯」をまとめることが出来たのでございます。

 

 スライドの整理は私一人では到底出来ません。東洋大学の長澤先生、野澤先生に大変お世話になり、整理できたので御座います。その後、安価に電子化することが出来まして簡便な検索が可能になりました。現在、明が赴いた場所の記録上、確かな5万枚ほど、今すぐにでも見られます。また、田村明が亡くなった後、仲原さん達のお世話で明が関係する資料は全て横浜市の市史資料室のほうにお預けすることになりました。そこでは羽田さんが先頭となって整理されておられます。いろいろご尽力いただいた方々に、この場を借りて厚くお礼申し上げます。

 

 最後に、眞生子姉から、昨年、「一人でこの家を切り盛りする限界を感じ、そろそろ横浜とはお別れしなければならないだろう」という相談を受けました。私は「ご苦労様でした」と、それまでの永い時間を感じました。その意味では田村明と構築してきた横浜との「お別れの会」ということにもなりましょう。会の初めに少し寂しい話で恐縮でしたがご挨拶に代えさせていただきます。有り難う御座いました。