講演「横浜の都市計画を、日本で唯一、世界標準の高みに引き上げた人、田村明」(蓑原敬・都市プランナー)

 こんにちは蓑原です。いやー、こんなに沢山の、しかも中には旧知の方が沢山いらっしゃって、びっくりしました。やっぱり田村さんは凄い人物だなってことを改めて痛感します。なんで私がこういう場にいる羽目になったかのかというと、もともと、田村さんという人は、きわめてカリスマ的な人でして、いわば田村教の教祖みたいな人ですから、部外者が田村についてとやかく言うことはあまりないですし、私の場合は完全に部外者であるにもかかわらず、こういうこと、こういう場に立つ羽目になったのです。

 実は奥さんの田村眞生子さんから急に電話がありまして、「こういうイベントがあるから話してほしい」。で、私は、そういう意味では、田村家とそれほどお近づきがあるわけではなくて、奥さんとだって何回しか会ったことないんだけど、実は非常に身近なお一人に感じているのは、奥さんの妹さんが教養学科アメリカ科という私の大学の一年先輩でして、この人は女傑で非常に怖い先輩でしたが、その人のお姉さんが田村眞生子さんなのです。そういう御縁もあって、そういうお話があったときに、私は田村さんとは、ある意味では色々なお付き合いがありますし、それから後ほども重ねて申し上げますけれども、戦後の日本の近代都市計画をつくってきた人は3人中の一人だと、思っているのでお引き受けしてしまいました。その第一は高山英華です。それからその弟子で、下河辺淳という人が日本の国土計画をつくり、日本の国土の全体を構想した。都市計画について、本当に世界標準で動いて成果を残せた人間がいたとすれば、それは田村明だという風に思っていまして、そういう意味では、昔から田村さんとは、仲よくしていた。仲よくしていたというのは、7年も先輩ですから失礼ですけれども、そういう御縁があって、二つ返事で引き受けたのです。

 ところが引き受けてみて、はたと思ったのは、実は私は田村さんとはそういう意味でいいますと、いわば外の人間ですから、田村さんに向かっては、ずけずけとものを言っておりまして、だいたいあなたは全て自分がやったようにものを言い、本を書いているけれども、おかしいじゃないか。あなたは組織して沢山の人を確かに動員した。で、まぎれもなく日本の近代都市計画の中に横浜市を光らせた人であるけれども、自分がやったわけじゃないでしょと。私自身はそういうような田村さんみたいに恵まれた環境の中で仕事をしてきておりません。25年間、旧建設省というところにいて、都市計画と住宅政策をやってきて、そのあとも31年間、民間であいかわらず都市計画的な仕事みたいなことを未だに続けておりますけれども。田村さんと飛鳥田さんみたいな、非常に幸せな関係で仕事をした経験例はないわけです。

 茨城県庁にたまたま出向した時に、その知事から信頼を受けて、その数年間は非常に幸せでした。しかし、それはあくまで、やはり、建設官僚、法律官僚の建設官僚であった知事の一部下に過ぎない立場でして、田村さんのように、全面的に市長の信頼を受けて、言い方が悪いですけれども、やりたい放題のことがやれたというような立場におかれたことは一度もありません。田村さんはけしからん、自分がいつも虎みたいなことを言うけれども、あなたは実は飛鳥田という虎の下の狐じゃないか。で、狐っていうのは僕みたいに一人でいるときには仕事にならなくて困るんだと。しかも虎がいなくなっちゃった後、残された人たち、これから後の廣瀬さんとかですねぇ、小澤さんは亡くなっちゃいましたけれども、内藤さんとか、田村さんと同志として、仕事を始めた人たちが、あとの歴代市長に仕えて、着々と横浜を今日のような姿にしていった。そういう人たちに対してどういうような、メッセージを出していくんだ。そういうような話をして、私は決して虎にはなれない狐なんだから、その狐の立場を考えてくださいということを田村さんには言い続けてきました。

 ただ、そんなことまで、ざっくばらんにお話をしますので、ご家族の方とか、或いは田村教の信者の方には、ちょっと失礼にあたるような発言があるかもしれませんが、それはお許しください。

 最初、田村さんとどういうきっかけで知るようになったかというと、さっきの鈴木さんのお話ともちょっと絡んでくるのですけれども。田村さんが、まだ環境開発センターにいたときに、建築関係の雑誌で鼎談がありまして、フィラデルフィアのペンシルバニア大学で勉強していたものですから、フィラデルフィアの都市計画は建築家のエドモンド・ベーコンがやっているように日本では伝えられているけれど、実際、本当にその都市計画を動かしているのは、エドモンド・ベーコンではなくて、ウィリアム・ラフスキーという人だ。彼は、ディベロップメント・コーディネーターっていう肩書きで市長直属の片腕になり、それが実際に世の中を動かしていたんだと言う話を田村さんに向かってしたことがありました。田村さんはそれを「ふんふん」といって、聞いておられたのですけれども。次に会った時には横浜市の企画調整室長になっていた。それからですね、一挙に横浜市が変わってくるわけです。

 勿論、私も自治体の中で仕事をした経験もあるので、よくわかっておりますが、日本の自治体の職員というのは非常に優秀です。残念ながら、あまりいい虎(首長)がいないものですから、その実力がなかなか発揮できません。ですから横浜市の中でも、非常に優れた方々がおられたにも関わらず、なかなか腕が振るえなかっただろうと思うのです。田村さんは企画調整室長として紛れもなく巨大な業績を挙げられたと思っているわけです。ただしその業績は、田村教の信者、或いは田村さん自身が言説として述べているような田村個人の力に帰すことができない部分が大きかったのではないか。というよりは、むしろ、横浜市の中にあった巨大なエネルギーを田村さんが非常にうまく編集して、結晶化した結果なのではないかと思っていたのです。そのときにその方向性、思想というものがどこにあったか、そこが問題であるし、その思想なるものが一体どういう形で形成されてきて、その動機づけとなっているような心構えというものがどういうふうにして田村さんの中に植え付けられたかなんていうことが全くわからないままでした。そのまま、ここに立つ羽目になったものですから。少し勉強しました。田村さんが書かれた先ほどの『田村明の闘い』っていうのは実はあれはパクリなんです。私どもは仲間と一緒に『サンフランシスコの都市計画局長の闘い』というアラン・ジェイコブスの本を翻訳しました。それと全く同じような姿の表紙で、その正に、アラン・ジェイコブスと似たような形でもって、ああいう形で喋っておられるんですけれども。アラン・ジェイコブスと違うところは、アラン・ジェイコブスは自分のやってきた仕事を、全体的な、客観的な状況の中で、きっちりと位置づけた上で、学説的な問題とか、色々な問題を比較考量しながら書いてるんだけれども、田村さんは残念ながらそういう目配せをしていない。

 ただ、私自身が非常に不思議に思っているのは、やはり田村さんは一種天才だと思うのは、横浜市にいたのは10年間です。13年間いましたけれども、後の三年間はおそらく非常に苦しい立場で、じっとして居ざるを得なかったんだろうと思っています。その10年間の間に、本当に横浜市のエネルギー、横浜市の職員のエネルギーを引き出し、横浜市の関わる民間の人とか、町の人、馬車道の人とか、元町の人もそうですし、伊勢佐木町もそうですし、そういう人たちを、いわば駆り立てて、ある一つのまちづくりに向かって集約していったという、そういうエネルギーっていうのは一体どこから来たんだろうか。

 それから、申し訳ないけど、田村さんは丹下研の出身で、都市計画、国際的な意味でいう都市計画をきちっと勉強しておられるとは思えない。なぜそんなことを断定的に申し上げるかっていうと、実はヨーロッパなんかを一緒に旅行していた機会もございまして、色々話していて、彼の考え方は、まったく彼自身が勉強して築き上げている考え方なわけです。そういう意味では卓越した人です。それに対して、私の場合は、残念ながら借り物であるわけです。まぁ、50年前くらいに都市計画を始めた時期には、私が、これはちゃんとした教科書になり得ると思っていたのは、ルイス・マンフォードの『都市の文化』とギーディオンの『空間・時間・建築』という二冊しかなくて、都市計画についての教科書なんてものは皆無に近かった。石川栄耀さんが資料集みたいな本を出していましたけれど、それが教科書とは言えない時代だった。従って、私の頭の中にある都市計画像は、欧米的な世界標準の都市計画像です。ほとんど英語とか、フランス語から読んで、都市計画を勉強してきたという形になっています。当時の日本は確実にそういう風に先進国から学ぶという姿勢を採っておりましたから、建設省の中でも盛んにそういうことを勉強していました。従って私の頭の中では、基本的なフレームはむしろ世界標準というか、欧米標準の都市計画像であった。その欧米標準の都市計画像で言えば、まず基本的には、歴史的に言えば、国家というのはむしろ後から出てくるわけで、都市の方が先にあるわけですよ。ちょうど田村さんが出てくるちょっと前ぐらいですか、羽仁五郎が『都市の論理』という、これは実際、歴史的には少し怪しげなところもあるような本ですけれども、イタリアを中心としたヨーロッパの都市の歴史の本が出ていますけれども。基本的に都市というものはやはり自治的な力を持っている、市民というものがいて、それが都市の文化をつくってきたということであるし、かつそこを支配した支配者も都市の中の人間として、きちっと都市生活をし、都市文化の表舞台に出てきている。例えばオペラ・ハウスには、必ず王様とか貴族とかが出てくるわけですね。

 そういう意味で言うと日本の都市は全く違いまして、日本の都市は城下町都市ですから、基本的に戦争があれば焼け払っちゃうというような構造で、そういう意味では、周辺都市、ヨーロッパの都市のような城郭を持った自立都市であって、かつ、そこにブルジョワジーが自律的な経済的な力とか自治的な力を持ったというところとは違うというところがある。しかもその中に都市の文化を花開かせていたわけです。しかし、支配者である武士は身分を隠してしか、芝居を見ることができない。

 そういうような都市の歴史があるのですが、第二次世界大戦後の近代都市計画の発展の中で、今までやっていた部分都市計画の繋ぎ合せでは上手く行かない。都市計画を総合的に扱う、科学的に扱うということが当然の話になって、前期の近代都市計画の時代には、そういう総合性とか合理性ということが非常に強く言われていた時代であったわけです。先ほど申し上げました、ペンシルバニア大学に1962年に私は留学したわけですが、当時、ペンシルバニア大はハーバード、カリフォルニア大学のバークレー校と並んで黄金時代を迎えていました。1年間非常にいい勉強をさせてもらったんですが、そのころの都市計画というのは、戦時中から始まるORを受け継ぎコンピューター時代に入りかけていた。そういう合理性、近代性、総合性、そういうのが当時の思想的な基盤で、それまでにあった縦割りの部門越の計画をいかに乗り越えるかが中心的な課題だった。現在の日本の都市計画は、相変わらずそこから一歩も脱却していないんですけれども、そういうような都市計画が戦後の近代都市計画であって、私なんかは50年かけて、一生かけて、そういうことを一生懸命やってきて、なかなかうまくいかないなぁと、悩みながら今に至っている。

 田村さんは非常に幸せなことに、先ほどらいのお話にもありましたように、たった10年間ぐらいの間に沢山の人の力を結集して、そういうような総合性のある近代前期のモデル的な都市計画を本当に横浜で実現しちゃった。正に驚きだったのです。しかし、それ以上に驚くのは、彼の残した教訓や遺訓が非常に強かったために、そのあと残された人たちが、田村さんがいなくなっても着実に彼が始めた仕事を押し進め、それだけでなく、田村さんの夢だったことを現実化していったことです。おそらく、飛鳥田さんが去った後、細郷さんとか高木さんの下で、しかも田村さんが横にいて眺めているだけの場で、前向きに仕事を続けるのは、田村さんと一緒に仕事をした職員の人たちにとって、非常に辛く苦しく、大変な経験だっただろうと思います。役人生活が長い僕には痛いほどよくわかります。それにも関わらず、そういう形でずっと田村さんの望みをそのまま実現していくような方向に向かって動き続けていく。しかも、時代に合わせて、そういうことを時期適切に、具体的に動かしていくということができて、横浜は本当に素晴らしい都市計画の歴史をつくった、そういう風に私は考えているわけです。

世界標準の都市計画とは?

 そのことを、初心に返って、復習しながら考えてみます。まず、その私の考えている世界標準っていうかな、欧米標準の都市計画というのは、先ほど言いましたように、まず市民主義というのが基本にある。それは歴史的に疑いを入れないわけです。その中で戦後の様々な情報化社会に向けての技術展開がある。ORから始まって今のCIT技術に結びつくような科学技術の展開があって、総合性というものが、計量的なモデルを使いながらどんどん発展していく。同時に、合理的な機能性を追求すると同時に、戦略的にこうやらなきゃいけないとか、経済的な成長を追求しなきゃいけないとか様々な展開がある。しかし資本主義経済の中では、戦時体制を引き継いだ社会主義的なケインジアン的な計画主義に対する反省が起こってくる。他方、計画主義の基盤を構成していた社会主義国家が崩壊していく。その時に、近代前期の世界標準として我々が考えていた、長期的、マスタープランを決めちゃったならば、それにしたがって、現在から未来に向かって総合的に手段を組み合わせれば良いのだと言う静的な計画主義は、実は間違いだったということに気が付くわけです。

 だけど、少なくとも僕とか田村さんが現役で色々仕事をしていた時代には、マスタープランをきっちり描いて、その実現に向かって着々と進めれば、行けると思っていたことも確かです。その時に、メモには文化性と、エリート主義と書いてありますけれども、支配階級の、ある文化、エリート文化を押し付けようとしていた。しかし、すでにもう私がペンシルバニア大学にいたときにポール・デビドフって言う先生がいて、アドボカシープランニングっていう計画理論を提唱し始めていた。計画的な提案は偉い人が押し付けるものではなくて、市民の意識をどういう形で弁護人として計画屋がまとめて、それを実現するかが勝負なんだということを言い出していた。そういう意味では、文化的なエリート主義に対する抵抗が始まっているし、それから時を同じくしてジェイン・ジェイコブスという人が出てきて、近代都市計画の世界をひっくり返すような、価値観の転換を促すような巨大な動きが出てくるわけです。

 そういうことが一方でありながら、巨視的に見ると、近代前期の世界標準というのは、総合性、文化性を追求している。一生懸命、将来を見通してマスタープランをつくり、できるだけ現実的なプログラムをつくって、いいデザインで形にしようという努力をしてきた。その時の核心は、分野横断的で、単なる土木と建築とか、造園とか、法律とか経済とかいう分野別の価値を超えた、人間の市民的な都市生活に根ざしたシステムで、都市をどうマネージするかということを考えていた。そのマネージする有り方の中に、当然高い文化性を持ったデザインを浸透させることを考えていた。こういうことが、近代前期の一つの大きな流れとしてあって、欧米の都市計画はそういう方向に向かって動いたわけです。

 だから、今のように世界的に新自由主義が染み渡り、都市環境の破壊だと言われているような大きな資本の動きが出ていても、特にヨーロッパではまだ比較的安定した形で都市再生の動きがいろいろ出ていて、持続性がある形での都市資本の蓄積が進んでいる。そういう文化性を大事にする歴史が長いから、既にある都市環境の蓄積が大きいから、市民の意識を背景として、歴史との繋がりを無視して、周辺と隔絶した、あまりにも機能的な、あまりにも機械的な環境を生み出すことはできなくなっている。ドバイとか、アブダビ、上海などの開発途上国は別ですが。

 そういう反省を踏まえながら、日本でも、分野横断的な別次元の総合性を目指そうとしてけど、できなかった。

 しかし、実は1970年代に革新自治体が日本の中に沢山出てきたときには、そういう欧米型、市民中心の都市計画が芽生え始めていた。単に横浜だけではなくて色々なところで起こっています。一番典型的な例が旭川、五十嵐広三という人が市長さんになりまして、旭川の道路、これを当時の国道を市道に転換した上で、歩行者優先の買物公園まで造っちゃった。それが1972年です。それは実はミュンヘンとか、それからクルチバで歩行者天国として道路を使いだしたのと同じ時期です。日本でも、そういうことを考え出して動いている人たちはたくさんいたけれども、今に至るまで、何十回、何百回と社会実験と称してガス抜きをやりながら、相変わらず、人の、歩行者を中心とした総合交通体系には切り替えられていない。

 そういうことを、少なくとも1970年代の横浜、1980年代にかけての横浜はそういうことを本気になってやろうとし、実際にある部分では実現ができた。

 田口さんから、そういうことを抽象的に言われても分からない人が多いんじゃないかなって言われたので、具体的なイメージを少し出します。

 例えばこれは千葉県の幕張です。これは全部埋め立て地です。まったくの埋め立て地。だから、交ざり物がない、近代都市計画が造った都市です。写真を見ると実に様々なパターンで一生懸命、実験的にやっていて、近代的な都市計画を実現している。

 これは、私どもが、実は20年、25年かけて沢山の仲間と一緒になって造った幕張ベイタウンというまちです。当時の千葉県の知事が、文化的な意志を持った非常に強いリーダーとして千葉県を動かし、その手先としての県企業庁が優れた仕事をしてきています。我々専門家の狐たちを裏から支える強い虎がいたから、私たちの意思がずいぶん盛り込まれた。例えば、道路ひとつとっても、これは目抜き通りですが、毎年5月に全く住民主体でやるベイタウン祭というお祭りをやるときには、こういうかたちで使える。少なくとも、こういうまちの空間構造を造って、そういう市民が集まればこういうことがいとも手軽にできる都市の空間構造が出来、使えるにもかかわらず、日本の普通のまちではこういうことが非常に難しい。

 例えば、ひとつの面白いエピソードがあります。幕張ベイタウンのすぐ近くにあのロッテ・マリーンズの球場があります。ロッテのバレンタイン監督が実はこのベイタウンに住んでいて、ロッテが優勝したベイタウンで紙ふぶきパーティーをやってあげるという約束を住民の運動家の人がしちゃった。まさかと思った優勝が実現し、こういう紙ふぶきパーティーも実現してしまった。こういうことができるのが、都市の道路の一つのあり方だけれども、こういうことが日本ではほとんど不可能です。こういう形で、紙を、パレードに沿って上から撒いていかないといけない。それが風景になる街路と建物の関係が必要です。それだけでなく、住民の人がパレードの演出に参加するという意識が必要だし、実際にパレードに合わせて細かくちぎった紙を順序良く撒いていくという社会システムをこしらえないといけない。それより問題なのはパレードの後の始末です。

 ところが、実は第一回目にロッテが優勝した時も、15分間で紙屑のゴミがなくなったって言うから、そんなの嘘だろう、そんなことありえないと僕は思っていました。二回目に優勝した時に同じことが行われたので、僕は現場で時間を計りました。きっちり14分後には跡形もなく綺麗になっていました。

 ということは、公共空間と建物との関係をトータルに考えた都市空間を用意しその空間に、管理者としての意識を持った生活者の市民が住みさえすれば、そういうまちができるというモデルになっていると思います。しかし、このようなモデルは、日本では残念ながらなかなか具現化していきません。

 何故かといえば、自治体に、かっての沼田千葉県知事のような優れた虎がいない。優れた虎が優れた狐を使っていいまちをつくるという構造が消え失せてしまっている。その上、新自由主義の台頭で、現在では、資本がかってのように余裕がある行動が取れない。

もう一つの具体的な例をお話しします。これは歩道の縁にあるボラードです。ああいうパレードをする風景にも馴染み、道と人とが溶け込んだ、生活環境に馴染んだボラードを設計してくれたわけです。これを一生懸命、デザイナーが交渉して、警察の人に納得してもらって、これだけの低い目立たないボラードができた。ところが警察の担当官が代わったとたんに、後で鎖をつけることを強要される。どうなるかって言うのはわかりきっていますよね。みんな足を引っ掛けてひっくり返るに決まっている。だから、みんな勝手に外しちゃうんですよね。だけどそういうバカげたことが起こるのが、今の日本の都市計画の構造なんです。そのことをはっきりと理解してもらった上で、横浜で田村さんがやったことを理解しないといけない。そういう法律や国家行政の構造を理解しないと横浜で起こったことの革新性が見えない。しかし、その革新性は、飛鳥田という強烈な革新市長がいたこと、そして、幸いにも田村さんは落下傘で単身市役所に飛び降りたにもかかわらず極めて優れた市の職員や市民の支援を受けたということでしょう。

 例えば、田村さんが主唱した都市デザインについて、実際にデザインをし、部外の専門家と協力しながら市民との折衝をした、岩崎駿介さん、西脇さん、国吉さんなどがいた。

 

 その力は未だに横浜市の都市デザイン室の力として、残り香がある。田村時代、田村後のそういう長い歴史の中で、今の横浜の都市環境は、例えば千葉とか浦和とか大宮とかと比べてみると、格段のデザインのレベルの差がありますよね。それはやっぱり、あの時代の田村さんが凝固させた結集力の力だったと思うんです。

 

 もう一つの幕張ベイタウンの例。歩道橋デッキのデザインの問題です。日本では、これは土木のデッキですから、土木のコンサルタントにしか発注できないという馬鹿げた仕組みになっている。しかし、ベイタウンでは、デザイン委員会があって、土木施設についても、意見を言うことができる。しかしいくら意見を言ってもデザインが良くなるわけではないので、結局、ベイタウンの都市デザイン全体の枠組みをつくり住宅デザインの計画調整者でもあった曽根幸一氏が自ら腕を動かしてデザインしてしまった。デザイン料がどうなったのか良く知りませんが、おそらくほとんどボランテイアーだったのではないかと思います。ところが、スライドにあるように、すでにデザインがしてあったにもかかわらず、企業庁の所管ではない県の公園側の手摺デザインは、この通りです。既製品をただくっつけただけです。日本では、まともなデザインで物を作ることが非常に難しい社会システムになっているのです。

 そういう縦割りの行政構造、それにぶら下がっている業界構造の中で、まともな都市計画をやり、都市デザインをやることはほとんど不可能に近い。

 国家官僚だった僕は、日本は、世界標準の仕組みでやってないじゃないかということを常々主張していたし、田村さんもそう思っていた。しかし、落下傘で行政に飛び降りた、都市計画の専門家でもなかった田村さんが、自前できっちりと勉強した上で、世界標準から外れた日本の都市計画を批判的に語り、田村理論として構築していった。そういうことを横浜市のあの時代にやったのです。

 その力は未だに横浜市の都市デザイン室の力として、残り香がある。田村時代、田村後のそういう長い歴史の中で、今の横浜の都市環境は、例えば千葉とか浦和とか大宮とかと比べてみると、格段のデザインのレベルの差がありますよね。それはやっぱり、あの時代の田村さんが凝固させた結集力の力だったと思うんです。

 

 もう少し大きなレベルの問題として、例えば路面電車によって車社会からの脱皮をはかっているストラスブールの例です。歩行者を優先し、公共交通サービスを強化して街の賑わいや静けさを取り戻そうとする動きは、欧米では1970年代から始まり、今や確固たる大方針になっていて、実際に中心市街地の様子はすっかり変わりました。これはジュネーブですね。これなんかちょっと極端ですけれども、バーゼルの駅前ですが、車が隅っこの方に追いやられて、人と路面電車しか見えなくなっている。70年代以降、もうヨーロッパやアメリカの都市計画はそういう方向に向かって確実に動いていて、日本だってそういうことはデザインできる人は沢山いるにもかかわらず、やらせないという社会構造になっている。

 ところが、たった10年間の田村さんのあの時代にはそういうことを一つ一つ、元町だろうと、馬車道だろうと、伊勢佐木だろうと街路を一つ一つヒューマンな空間構成に築き上げていったという歴史がある。

 これがあのさっきの1972年の旭川の買い物公園と同じような、クルチバの例です。未だに、こういうかたちで使っています。これは上海の南京路です。南京路ですらこうなっているというのに、なんで日本ではそういう総合的な判断ができないのか、悲しくなります。しかし、田村さんはやっぱりそれはおかしいと、非常に素直におかしいと考えられて、やってきたと思うんです。 

田村明とは誰か?

 

 それで、田村明さんって、一体じゃあ、どういう人だったか。こういう怪しげな化学式風の記号を書くと、化学者である田村千尋さんから、「おかしい、間違いだ」と言われそうですが。CH4、CO2であるはずだと。でもまぁ、単なる記号としてご理解ください。はっきり申し上げて田村さんの思想は、全部セルフメイドだと感じています。で、そのセルフメイドの思想をつくり上げてきたのは、田村家と、それから奥様の出である斎藤家、この二つの家が、無教会派のキリスト教に属していたことが非常に大きかったんじゃないかなということが、私が何冊かの田村さんの伝記的な本と奥様の妹の斎藤佳世子さんの本を読んで感じたことです。

 ですから、田村さんは、下から行きますと、まずCHだ。CH、クリスチャニティですね。都市というのは神様みたいなものですから、神様みたいなものがあって、神様が支配しているこの世の法みたいなものをちゃんと理解して、それを、その法に沿って何かをしようと考える。しかも無教会派ですから、徒党を組んでやるんじゃなくて、神さまと直に向き合う。そういうかたちで都市に向き合っていたのが、凄いと思いました。

それからもう一つ、田村さんの自伝的な本を読んでみると、彼は旧制高校の文化に対しての強い憧れがあったと感じます。実は私の兄貴もまたちょうど、田村さんと同じような世代でして、旧制高校文化にかぶれていたものですから、私自身も中学校、旧制中学じゃなくて新制中学に入ったころから、旧制高校文化というものに憧れていたので、実感として良くわかるのです。旧制高校が日本のあの時代の、エリート養成所であったということは、間違いはないんですけれども。旧制高校っていうのは、ある種の青春のモラトリアムの時間を設けて、そこで自由と自治というものを通して、人間がこれから社会人として出発するときの自分のスタンスをきちっと決める、非常に重要ないい時期をつくってくれたんじゃないかと思っています。田村さんは静岡高校の寮におられたんでしょうけど、しかも、3年の内1年ぐらいしか実際は平和な時期はなくて、あとの2年間は戦争中ですから酷い目にあっているということは自伝読むと分かるんですけれども。でも、そこで得た自由と自治の精神が一生涯抜けなかったんじゃないかと感じます。

 それからあと、田村さんの人の洞察力と指導性への確信は、おそらく浅田孝という類まれなカリスマ的な人物の影響ではないかと思います。さっきの話を聞いていて、もし浅田孝が、田村さんが丹下さんを訪ねて東大の戻る交渉をしようとした場にいなかったら、日本の都市工学のつくりかたも違ったかもしれないし、日本のその後の都市計画のあり方も変わったかもしれないなぁと、ふと思ったんですけれども。浅田さんって言うのは、本当にそういう意味では面白い、天才的な人でして、その人のある種のカリスマ性をきっちりと身に着けた上で、かつ具体的に空間作りに介入したり、それから、それを戦略的に動かそうとした。田村さん自身は丹下研の出身ですから、空間については丹下研的な佇まい、戦略については高山研的な佇まいを一身に体したのではないか。こういう合成物が成り立つかどうかはわかりませんが、僕の印象はそうです。

 結果的に見ると、田村さんっていうのは強烈な触媒だった。或いは、飛鳥田さんとともに築かれた熱核融合炉だったんじゃないか。本当に沢山の人々を動員して、そういう形で動いたが故に、横浜の今がある、こう思っていました。先ほど言いましたように日本の今があるのには、下河辺淳の存在が非常に強く影響していると思っていますが、残念ながら下河辺淳のしっかりした伝記ができていない。田村明については幸いなことにこれだけ沢山のファンがいて、伝記的なものもきっちりとまとまってきているし。それから、先ほどの田口さんの報告ではないんですが、そういう使徒、田村明を超えた、歴史的な評価もきっちりとできるようなかたちで、これから田村明さんの周りの勉強はできていくと思いますから、非常に恵まれた人であると思っております。

田村明の仕事の歴史的意味

 

 さて、そういうことの上で、田村さんがどう考えていたかとか、その路線をどう継承するかとかではなくて、田村さんがその場においてどういう風に考えて、どういうふうに上手く動いたかという、そういうような判断能力とか、或いは、それを形にしたい、ある種の文化的なイベントに仕立てていくような、そういう構造というものをどういうふうに造る、その姿勢を学ぶことが大事なんじゃないかと思います。そういう姿勢を学ぶということを考えるとすれば、我々が考えなきゃいけないのは、何か。田村さんは世界標準の都市計画のパフォーマンスとしては日本では空前絶後のことをやり遂げた。

 で、だから彼の仕事と彼を取り巻いた人たちと一緒になって、歴史的な評価をするということは疑いなく大事なことで、是非NPO法人は頑張ってくださいということを申し上げたいわけですが、そこに止まっていることは田村さんの本意ではないと思います。

 

世界標準の都市計画の前提

 

 世界標準の都市計画の前提が、今はもう大きく変わっているんです。近代の前期において我々がベースにしていたのは、鉄軌道とか自動車の全面利用みたいなこと、それから電信、電話、ラジオ、テレビであるし、資本主義、社会主義が並立した状態の中で、システム型の思考が確立して、福祉国家、大衆国家、大衆社会に向けての動きがあった。そういう時代が我々の都市計画の勉強の基礎にあったんです。しかし、70年代以降の世界はそういう世界ではもうなくなっている。自動車利用と言うのは、むしろ限定的にすべきであって、交通体系は統合的にやらなきゃいけないし、それからもう電信電話機ではなくて、CIT技術が世界を席巻している。それから資本主義ベースの経済システムが地球全体を覆っちゃっているけれども、その中で環境問題が浮上してきていますから、その中でどうやって本当に地域経済を自立させ生き延びさせるのか。それから、分権自治社会と国家連合みたいな、国際的な流れの、いわば、その補完性みたいなものをどうやって繋げていくのか。そういうことをきちっと考えなきゃいけない時代になっているわけです。田村さんが考えていた時代の、田村さんの解決法を学ぶのではなくて、我々が田村さんと同じような使命感を持って、現実を解析し、それに向かって取り組んでいくことが必要なんじゃないかと、こういいたいわけです。

 ですから、近代後期の世界標準、今我々が世界標準として考えないといけないのは、前期の思想的な基盤を受け継ぎながら、ということは総合性や文化性っていうのは欠かすことはできないし、それから市民的な自治は、これはもう、世界的に欠かせることはできないで引き継ぐ必要がある。そういうものは受け継ぎながら、現在の資本主義のある種の停滞期を乗り切らなければいけない。近代主義とか、資本の論理というのは、物事を切って、切り刻んで過去を捨てていくという論理ですけれども、そうではなくて、色んな意思決定の際に、連続的に歴史を繋いでいくようなものの考え方に変えていかないといけない。そういう意味で言うと、基本的な原理というのがあって、それの原理を読み解けば、システム的に思考すれば、合理的な行動ができるというような発想ではなくて、現場、現場の各々の問題をどういうふうに現場での解決を積み重ねながら、補完性の原理で多くの層の課題を解いていかなければならない。

 未来の推定から未来を想定して、その未来像の実現に向けて現在から積み上げると考える、神の手になるような計画過程は、人間社会ではできないということははっきりしてきている。実は私が1962年にアメリカに行ったときに、ちょうどペンシルバニア州のフィラデルフィアっていう都市が、きわめて優れた美しいマスタープランを書いたけれども、そういうマスタープランは絵空事で、実現不能なんだっていうことは、もう当時から指摘されていた。そういうようなマスタープラン主義ではない、現在の現場の人の必然的、短期的な意思をベースにしながらも、その結果としてつみあがる長期的な未来の推測からの評価を怠りなく参照しながら、具体的に介入していくと。非常に難しい技術に変質している。そういう方向に切り替えていかざるを得ないし、現にもうそうなりつつある。

 そういうことやろうと思うと意思決定の過程を当初からオープン化して、行政主導の間接民主制ではなくて、市民参加型、直接民主制で、その結果、エリート型ではない、計画の政治行政構造が後期の世界標準だと考えざるをえない。更に、我々の課題として突きつけられているのは、地球環境問題の上で、今の経済発展が続けば、自然生態系とのバランスが崩れて絶対に行き詰ることもはっきりしてきている。私が生まれた時には地球人口がせいぜい10数億ぐらいだったのが、まもなく100億の人間を相手にして、その100億の人間が近代技術を使って中産階級化するという事態に直面することになる。そのバランスの上で人間のハビタットをどう造り直さなきゃいけないのかという課題を解くことが避けられない。そのときに、誰か賢い人が命令を下したってうまくいくような話にはならないので、CIT社会の中で、どうやって人の協働体制を作り直し、高齢化する人口の中に、もう一度、コミュニティみたいな相互支援の仕組みをどう再構成するのか。

 時間的な連続性ということで言えば、私も間もなくあの世に行っちゃうわけですけれども、日本の人口構造で言えば、あと数年経ったらば、50歳以上、要するに、もう人生の峠を越えて、先の展望が見えてくる年代を超えた人が、確実に65%を超えるという社会が延々と恐らく100年くらい続くはずなんです。人口構成が若い時代に経済成長を狙い、新しいものを造るために、切断して切断して壊しては作り直すという時代はすでに終わりました。その中で、どうやって我々はプランニングという考え方を仕立て直し、そのなかにどうやって歴史性や文化性を託し混むのかというのが若い世代に残された課題であって、そういう課題に対して、お前たちしっかりやれよということを田村さんは言っているんだろうと思っているわけです。

質疑応答

〈質問者〉

 田村明先生のお話に加えて、蓑原先生の都市計画の歴史とアーバンデザインとか、今の社会がどういうふうに変わっていくかということに関する我々の課題みたいなことまでお話しいただいてありがとうございました。その中で先ほど都市が新自由主義によって崩れていったというお話がありましたが、私たちが今、田村さん、或いは横浜市でやってこられたようなアーバンデザインの歴史みたいなものが、その他のところに、東京もそうですが、なかなかうまくいっていない原因って一体何なのかということを考えていきたいと思うわけですが。例えば、先ほど言われた新自由主義といっているような、この田村さんたちがやってきた、この横浜市はかなりその社会共通資本といっているような社会に共通の価値がある。みんなに共通の大事な価値を与えられるんだっていうような認識があったかと思うんですが、それがそのあと1995年くらいからだと思いますけど、全体に市場原理主義が経済の方でも盛んになってきまして、まぁ現在その真っ只中にいるわけですが、そういうものとの関係から、そういう資本っていう、社会資本って言っているような共通資本を、要らなくなってきたんだっていう、その価値観を、認めなくなってきている状態に現在あるのではないかというふうに考えるんですが、その辺は如何でしょうか。

〈蓑原敬〉

 今の僕の歳になると、もっている現場っていうのは、ほとんど、もうあんまりないんですけれども。今の質問に対してお答えできる根拠となる現場が二つあります。一つは、銀座です。今度オリンピックが行われると、その時に一体、東京はどういう形の交通体系を採るんだと。銀座の人は、そのことに備えて提案をしています。臨海部にあるオリンピックの会場や本部、選手村から、代々木の国立競技場に向かって、どう結ぶのかという提案です。環状二号線を使って、LRTを走らせる。その際、銀座八丁を完全に歩行者専用化して、LRT化とか、或いはもうちょっと小さい交通機関を入れて車社会からの脱出を図るという提案をしているわけです。その提案を支えている専門家は横浜国大の中村先生です。先生の年来の主張であるモビリテイーデザインの考え方の応用です。幸なことに、中村先生は国や都の交通計画を作る専門家のリーダーとなったので、銀座の人の支持を受けたそのような提案が少しでも国や都の事業に反映されればと思っています。もう社会的共通資本といわれているものの中身が具体的に変わってきていて、それをどういう風に考え直していくか。特に交通体系については、もう道路を造るのではなくて、道路を如何に上手く使いこなすか。自動車をむしろ抑制して、どういう形で、歩行者を中心とした公共交通サービスを築くかの問題だと思っていて、オリンピックの機会に、国や都がそういう世界標準に近づいてくれることを望んでいます。高齢化者社会の中での必然でもありますし、それから特に青少年も含めて、交通弱者に対する対応を考えると、否が応でもそういう体系に切り替えざるをえないと思っています。

 銀座で起こっているもう一つの例をお話しします。銀座の松坂屋の再開発をキッカケにして、6丁目が大きく変わります。森ビルが入ってきて、高さ200メートルの塔を建てるという再開発案を出してきたわけですね。銀座の人たちが三年かけて議論した結果、それはやめようということになりました。銀座という都市環境は超高層の導入で決して良くはならない。銀座の価値を守り、成長させることにはならないと考えた。逆に銀座という都市環境は、今ある街のスケールを段階的に、追増的に、上手く綺麗に、綺麗に仕上げていくことによって、銀座の価値が残るわけだし、高められるというふうに考えました。資本が要求する切断の論理より、街が要求する連続の論理が勝ったのです。幸いにして200メートル案が潰れて、区域を限ってですが、建築物の高さ57メートル、広告物を載せても60メートル以下に、抑えるとことになりました。そのときに何を思ったか、中央区は銀座の人たちに対して、「では、一件、一件、市街地開発事業要綱にかかるような案件が来たら、銀座を通るようにして、銀座からいちいち文句言ったらどうですか」っていう話になっちゃって、実は銀座デザイン会議というのができてしまった。今までにもう1500件くらい審査をやっていますか。審査と言っても強制力があるわけではないのですが、皆さんとてもよく銀座の人の意向を受け入れてくれています。銀座の人の常識のレベルが高いのももちろんありますが。もちろん、100パーセント銀座の意見が受け入れられるわけではありませんが、日本の企業とか日本の市民の人は銀座というと、一目置くところがあるものだから、ほとんどの人が言うことを聞いてくれます。しかし、外資になるとそうはいかない。これから入ってくる外資に対してどう対応するかという問題は残るのですが。社会共通資本なるものの概念の中に、もうちょっと、まちの柔らかさ、親しみやすさ、デザイン、美しさ、優しさ、そういうものをどう取り組んでいけるのかという本質的な問題もあります。その問題は、実は、銀座の人と、それと中央区はかなり結託しているけれども、東京都とか国とは、対立構造にむしろなっているというところがあって、その辺を変えて行かなければいけない。

 もう一つの例は奈良県の十津川村です。奈良県の十津川村の高齢化率はもう40パーセントを超えていて、日本の多くの地域社会の将来像を先取りしています。そういう村の人たちが、人口は減っていくことはもう避けられないとしても、そのときに安定したかたちで、穏やかに、残光のなかで上手く生きていけるのにはどうしたら良いのか。できるのならばどこかのレベルで人口減を止めて、きちんとした地域社会として生き残って行かなければいけない。そのためには、外からの移住も不可欠なのです。十津川村は日本で最大の面積の村ですけれども、97%が森林です。しかし、今、森林飽和の状態で森林資源がきちんと更新ができていない。森林が死につつある。森林が死につつある過程の中で、猪とか獣害が沢山発生していまして、そういう問題についてのコントロールが全然できていない。 今、もう、人口が4000を切っちゃいましたけれども、そういう村の中でのライフスタイルをどうやって繋げていくかが、村の政策課題であり、それを解くためには、とてもではないけど縦割りの中央行政に付き合えないでいます。村の職員が100人しかいない村ですから、中央の縦割りをそのまま受けられるわけがありません。そういう状況を踏まえた中で、それを具体的に一個一個の現場でどう切り替えるかというときに、十津川が培ってきた文化的な価値、歴史的な価値をどう継承しながらやっていくのか、その継承のためにも、森林問題だけでなく、エネルギー問題、福祉保健の問題などを総合的に解決していく方策を組み上げていく勝負になっています。

 世界的に市場原理主義的な亡霊が漂っていますが、私は長くは続かないだろうと思っています。景気後退、下手をすれば大恐慌のようなことが起きる。今の資本主義経済が非常に無理をしている。そう思っている人沢山いるわけで、経済の長期的な趨勢は明らかに成長型でなくなるのは経済学者としても、もう常識になりつつあると思っています。特に日本が、大自然災害のリスクも含めて一番危ない。国の財政も過剰な負債を背負い危機的な状況にあるにもかかわらず頰被りしている。

 そういうことを踏まえた上で我々は、我々の都市計画なり、まちづくりの体系をどう組み替えていくか。その時に大事なことは、土地本位とか公共施設本位ではなくて、人本位の政策体系に切り替えて、人の生活時間を如何に豊かに変えていくかっていう方向に向かって、政治行政を変えていくことが我々の勝負だと思っているわけです。