「『都市プランナー田村明さん』の横浜都市づくりへの功績」(廣瀬良一・元横浜市助役)

 皆様こんにちは。横浜市OBの廣瀬でございます。今日はこんなに大勢の方がご参加されるということを事務局の方から聞いてはいなかったのですけれども、田村先生の人徳と言いますか、ご功績に対して、本当に強く多くの方が認めていらっしゃるのだなということを実感させていただきました。

 また、今日、何人もの方にお目にかかりながら、その都度名刺交換などをさせていただきましたが、私どもが横浜市で都市計画行政や多くの街づくり事業を進める中で、外部の方々と言っては失礼ですが、大変ご協力やご指導を頂戴した方々の顔が多く見受けられます。また、我々がやってきたことについて、それなりに時代背景を踏まえながら継承し尽力いただいている横浜市の後輩の方々も何人か見えていますが、大変心強く思っている次第です。

 今日は田村先生についてのお話ということでございますが、私が田村先生に最初にお会いしたのは、私が横浜市建築局で開発指導の係長をしていたときでありました。田村先生

が昭和43年に横浜市に来られてちょうど一年くらい経ってから、当時の企画調整室を企画調整局に拡充整備することの前提があったと思いますが、庁内からそれぞれの人材を集める人選の中で、幸運にもその一人として田村先生の目にとまりまして、建築行政の立場から企画調整室で仕事をしてくれということでした。

 そんなこんなで以来、田村先生が延べ13年間横浜市で活躍されましたが、先ほど蓑原先生のお話にもありましたように、後半の中の最後の3年間は、殆ど田村先生が腕を振るうという立場にはありませんでした。そうした田村先生の13年の在任期間中の12年間、私は門下生の一員として仕えさせていただき、同時に薫陶もいただいたわけであります。

 今でも私は思うのですが、単にプランナーとしての田村先生というよりは、横浜市で実践的な仕事をしている中で、非常に優れた人格を持った方でありまして、現在の私の人格形成の半分以上は田村先生の影響を受けたのではないかと思っています。例えば、いろいろなことで悩んだり、壁にぶち当たったりすることがありますが、そういった時に自分としてはこうしたらいいのではないかと自分なりの対策を考える中で、田村先生だったらこのことについてどうおっしゃるかな、或いはどういう対策を考えられるかなということを絶えず検証してから私なりの結論を出すようにしているのですね。このことは今でもほぼ日常的にやらせていただいています。

 現在私は横浜市を卒業して既に20年になります。この間、横浜市の複数の外郭団体を含め、お付き合いをいただいた民間各社の仕事もやらせていただいておりますが、既に82歳になりました。歳のことを申し上げたところで一つ付け加えさせていただきますが、先ほど田口さんのレポートの中でも、歴代の市長として飛鳥田一雄、細郷道一、高秀秀信の三人の方が、特に「みなとみらい21事業」の関係で挙がっていましたが、この三人の市長さんは、実は、三人とも70代の中頃でご逝去されていますね。ですから、82歳になった私の年代には、もう既にそれぞれご逝去されていらっしゃいます。ということを考えますと、私は82歳になったわけですから、7~8年ほど歴代の市長さんよりも長生きをしているわけです。それだけに私としても、その三人の市長さん達が残されたご功績を継承してきたつもりですが、これまでの反省を含めて今いろいろと考えてみますと本当に忸怩たる思いで一杯でございます。

 そんな中で田村先生は都市プランナーとして、私たちに10年以上にわたって種々薫陶を続けていただいたということでございます。そこで先程の蓑原先生のお話では、外部から見た田村先生像、そして同じプランナーとしてのお立場からの都市プランナー像、また更に次世代の都市づくりをめざす横浜の都市計画全体へのご功績などに言及されたと思います。私は横浜市の中におきまして、そのような学術的な観点からではなく、田村先生が横浜市の中で種々実践的におやりになったことにつきまして、組織の歯車の一つとして微力ながら貢献させていただきましたので、そういった中でのお話になろうかと思います。

 今皆さんはパワーポイントをご覧いただいていると思いますが、私の原稿はもう少し体裁がきちっとしておりまして、この画面では行が入り乱れていますけれども、順序としては概ねこれで良いと思います。田村先生のことについてはいろいろな文献や皆さんの記憶の中で十二分にご存知の方が多いと思いますが、一応おさらいの意味でご覧いただきたいと思います。

1、横浜都市づくりにおける潜在的課題への挑戦

 (三重苦の克服=①戦災、②接収、③人口急増=都市基盤整備の遅れ)

 田村先生が横浜市に来られた頃は、まだ横浜市の都市基盤整備はかなり遅れており、特に他の大都市と比べても相当遅れていたというのが実感でありました。

ここに三重苦という言葉が出ておりますけれども、この三重苦って何かというと、これは横浜市の意思とは無関係に他動的に背負わされてしまった苦難のことです。勿論これ以外にもいろいろな都市問題はあったわけですが、田村先生が来られた頃は、まさにこういう横浜市の実態であったわけです。ですから逆に言えば、ある程度都市整備が進んだ段階でおいでになるよりは、戦災によって壊滅的に壊されてしまって多くの問題を抱えている中で白紙のキャンパスに絵を描くように、かなりスタートラインの段階から再構築しなければいけないという意識であったと思います。そういう状況の中で田村先生がいろいろとお考えになり、種々実践的に推進されてきたわけであります。

2、21世紀の国際文化都市をめざす横浜都市づくり施策の展開

(1)六大事業の立案と推進

  (①都心部強化事業、②港北ニュ-タウン建設事業、③金沢埋立事業、④地下鉄建設事業、⑤高速道路建設事業、⑥ベイブリッジ建設事業)

 

 「みなとみらい21事業」が目指しているポリシーもそうですが、横浜市全体が21世紀の国際文化都市を目指すことを前提にいろんな事業を、或いは政策を立案されました。その代表的なものが六大事業ですね。この六大事業については、皆様既にご承知の方が多いと思いますけれども、①から③までがいわゆる面的な事業であり、④から⑥が線的な事業でございます。

 この原案を作成された浅田孝先生の研究所で最初に考えられたときには、これにもう一つ加わっていたようですが、横浜市の六大事業としてはこの6つでございます。これを横浜市が強力に推進することは勿論ですが、その次の(2)をご覧いただきますと、こういう諸事業を具体的に展開する中では、組織的に3つの大きな都市づくり施策を田村先生が提唱されたわけでございます。私どもはこの3つの政策に沿ってそれぞれ分担し進めてきたわけでございます。

 

(2)都市づくり三大施策の展開

  (①プロジェクト、②コントロ-ル、③ア-バンデザイン)

 

 その中で私が担当しましたのは、②のコントロールでございます。先程来から③のアーバンデザインの話が事例として取り上げられていますが、まず①のプロジェクトについて概略ご説明をしますと、これは六大事業の推進が中心となっていました。先程小澤恵一さんの名前が出ていましたが、彼はそれを担当する企画調整局企画課長でした。私はその隣で総合土地調整課長を拝命し、主として土地利用のコントロール業務を担当していました。③のアーバンデザインについては、当時、岩崎駿介さんというデザイナ-の方が担当課長をしていました。この方は横浜市に途中から入られて、途中でやめていかれましたけれども、やはり横浜市の中でのアーバンデザインについては先駆的な功績を残された方であります。

 多分、本日の時点で小澤恵一さんがご存命であれば、私に代わってその小澤さんが話をされるのが順当であったかも知れません。彼とは当然、横浜市の同僚職員として、また年代も近いものですから、お互いのジャンルは違いますけど、同じ企画調整局で切磋琢磨してやってきた仲間の一人でもあります。

 

(3)自治体の主体性確立

  (①現行制度、法律等の最大限活用、②主体性に基づく行政指導基準の策定運用、③縦割り行政から横断的総合行政への転換)

 

 次に(3)自治体の主体性の確立ということですが、ここにおられる皆さんのお耳には何回か入っているかと思いますが、現行の行財政制度のもとでは、法律も含めましてこれを最大限に活用することの前提はあったわけですが、それだけでは複雑かつ多岐にわたる横浜市の都市行政には十分機能させることができなかったわけです。

 ①の現行制度を最大限に活用するということは、使える現行制度を単一でも、又はそれらを複合連携させながらでも実情に沿って適切に運用し、逆にあまり役に立たないものは、使わないことも含めて消極的に運用することであります。まさに横浜市の主体的な判断を優先させたことであります。

 都市計画分野においてもいくつかの事例がありますが、例えば都市計画法に基づく線引き即ち市街化区域、市街化調整区域の設定の仕方については、市街化区域を現に市街化している地域の範囲にとどめることで、反射的に市街化調整区域をできるだけ広くし、計画的に市街化を図って行こうという選択をしました。

 それから、法律ではどうしてもここまでしかできないということについては、それを法律に基づく条例化等で対応し、更に横浜市独自の行政指導基準等で補完する施策を打ち出したものもあります。現在は既に廃止されていますけれど、俗に言う用途別容積制として、横浜市建築基準条例を改正し、容積率を同じ用途で全部使ってしまうのではなく、特に高容積率の中心市街地においては、もともと商業、業務機能の立地を前提としていることから、住宅開発は逆に抑制するという規制条文を入れました。このねらいは、市街地において住宅が立地すると日照等の環境問題で周辺の土地利用が大幅に制限されると同時に、横浜市としても学校等の住宅関連公共公益的施設の対応困難性を回避できることにもありました。

 ②の主体性に基づく行政指導基準の策定と運用、これを私の仕事の一つとして担当していました。宅地開発要綱をはじめ、開発、或いは建築に関する行政指導基準がそれです。こういうものを①と並行して田村先生の指導のもとに進めました。それから③の横断的総合行政ついてですが、先ほど蓑原先生のお話にもありましたように、行政の縦割りというのは法律の縦割りと主旨を同じくするわけですが、やはり一つの行政体、横浜市という総合的な行政を推進するためには縦割りではうまくいかないわけです。現実に今までそうだったわけですが、田村先生がおいでになって、特に力点をおかれたのは横断的な総合行政の展開ということでございます。これは例えばハードの面で言えば、今の横浜市の都市整備局、そして建築局、道路局、或いは環境整備局、港湾局、水道局、交通局と、いろいろ各ハードのセクションがあるわけですが、そういうものがそれぞれの立場でそれぞれの施策をやっていたのではそれぞれが個別縦割りで総合行政にならない。結果的に矛盾があったり、或いは逆に軋轢が生じてしまって、横浜市としてのあるべき方向にならない。こんなことを企画調整局という立場から、総合的な行政への転換をされたということでございます。 

3、都市づくり組織体制の整備

(1)都市行政の体制整備

  (①企画調整局の創設、②都市問題調整会議の運営、③都市計画調査会の創設活用)

 次の3、組織体制の整備についてですが、こういった理念、或いは目標を掲げたとしても、実際にこれを実現するには、組織が大きくなればなるほどそう簡単には行きませんでした。しかし結果的には当時の飛鳥田市長の裁断もあって、企画調整局の創設とか、或いは都市問題調整会議の運営、そして都市計画調査会の創設、活用。この3つが代表的なものとして実現したわけであります。

 一番上の①企画調整局の創設というのは先程来から、いろいろお話がありましたように、横浜市政全体を束ねるということでございます。横浜市としてあるべき方向を行政全体として総合的に推進するというのが企画調整局の役割です。

 ②の都市問題調整会議の運営についてですが、実際に市政を運営していくためには、企画調整局だけですべてが完結できるわけではなく、企画調整局は司令塔の役割ですので、それぞれの各局がその方向に沿って本来の事業を推進してもらわないといけない。ということになりますと、ある程度各局間の調整が必要となります。もちろん、いろいろな段階でテーマごとに行われていた連絡会議的な体制は従来からもありましたが、都市問題調整会議は市長をトップにしてそれぞれの局長で構成する全体会議の下に、テーマごとに各局の部長、或いは課長レベルでの横断的に調整する会議の総称が都市問題調整会議でございます。こういう事務的なものもこの企画調整局の仕事の一つでございました。

 それから③は、若干趣を異にするのですけれども、先ほど蓑原先生のお話にもありましたように、我が国の都市計画分野、或いは建築の分野で、大御所と言われていた浅田孝さん、高山英華さん、八十島義之助さん、そして、横浜国大の河合正一先生など蒼々たるメンバ-で構成した都市計画調査会がありました。                

 このメンバ-の方々は今では殆どの方が亡くなっておられますが、皆さんもよくご存じのように当時はそれぞれの分野における権威者と呼ばれるような方々ばかりでした。この都市計画調査会は、市長の諮問機関の一つとして、都市計画に関する重要かつ基本的な課題について自由に語り合っていただくために、敢えて都市計画法に基づく都市計画審議会とは別に設置されたものであり、別名「田村局長のPTA」とも言われていました。

(2)都市づくり人材の育成強化

  (①大テーブル主義の展開、②庁内人事交流の促進、③研修派遣の推進、④外部人材招聘の推進)

 それから(2)の都市づくり人材の育成強化についてですが、組織と同時に人を育てるというか、まさにこれも大きなテーマの一つでございます。よく「組織は人なり」と言われるように、立派な入れ物をつくっても、中身がきちっとしない限り組織は機能しないわけです。ここに田村先生が日常的に推進されこととして①大テ-ブル主義の展開、②庁内人事交流の促進、③研修派遣の推進、④外部人材の招聘など代表的なものを挙げました。

 まず①の大テ-ブル主義というのは企画調整局独自のものですが、毎週月曜日、局の中に大きなテーブルが一つあって、当初は局のメンバ-全員がそこに座りまして、田村局長に先週一週間の出来事について直接報告することから始めました。当然報告を受けるだけではなくて、ディスカッションをするわけですね。ということは田村局長を中心として、全員がそういったディスカッションに参加するわけであります。得てして、行政は縦割りですから、隣の課が何をやっているかっていうのはなかなかわからない。一企画調整局の中でさえ、随分そんな問題がありました。先ほど申し上げた、小澤恵一さんがやっていたプロジェクトの仕事についても、我々がコントロールという立場からそれを隣で聞くことができる。また、それに対する意見を言うことができる。田村局長がそれに対してどういう指示をされるかも含め、一つのテーブルを中心として日常的に行われていたわけです。ただ段々、企画調整局も人員が増えてまいりまして、組織も大きくなってきますと、一つのテーブルでは物理的にどうしても収まりません。従って、課長以上がそこに参加して、田村局長と直接やり取りすることもありました。そんなことをやりながら、いわば田村イズムを我々に植え付けていただいたというわけでございます。

 その次の②~④についてはご想像の通りでございまして、できるだけ人を、我々の後輩も含めて、横浜市の職員の質を更に向上させ、そしてまた、それぞれの意識としても企画調整局が中心となって進めるようなことをそれぞれのセクションでも実際に実行して欲しいというのが人づくりであったわけでございます。

 私の拙い話ではございますけれども、田村先生が横浜市の中でどんなことを具体的におやりになられたかということ、そしてまた、私どもがどういうふうに受け止めてきたかということを申し上げさせていただきました。

 ただ田村先生についても、こういった良いことばかりではなく、当初はなかなかこの企画調整局の存在と各局の関係などは理解されず、私達自身も実際問題としては困った事態も当然ありました。それでも横浜市としてあるべき方向に進むことが理解されれば、組織全体として機能するということでございますので、こういった大きな司令塔、また強大な原動力、こういうものの中で、私どももそれなりに田村先生のご功績を受けとめて今日の市政に繋げてきたと言ってもいいのかと思っています。ちょうど時間でございますのでこの程度にさせていただきます。ご静聴ありがとうございました。