逗子市まちづくり懇話会にみる田村明の市民像 Definition of Citizens by Akira Tamura in a series of the Zushi Town Meetings
田村明の最後の著書は“「市民の政府」論”(生活社2006)である。市民中心主義でまちづくりを考え実践しようとした、都市プランナー田村にとって「市民」とはどう定義しどう行動を共にする主体として位置づけるかを、横浜市企画調整局時代(1968/1978)以降も考え続けた。横浜市退職(1981)後、1986年から1993年にかけて逗子市長・富野暉一郎からの依頼で続けた「逗子市まちづくり懇話会」は、米軍池子住宅建設問題でおおいに揺れる逗子市で、当面の池子問題だけでなく将来のまちづくりを総合的に考える場であった。44回にわたる懇話会には、田村たち有識者・市職員・市民が参加して議論を闘わせた。NPO田村明記念・まちづくり研究会の有志(田村千尋、田口俊夫、関根龍太郎、青木淳弘、奥津憲聖)は、この貴重な議論の記録から、田村が考える「市民像」を探れるのでないか、という仮説をもった。これが当該研究活動の出発点である。その後、コロナ禍もあり、移動行動の自由が制限される中で研究が一旦停止した観があるが、これまでの記録をとりまとめることとした。最後に、当該まちづくり懇話会の記録を情報開示していただいた逗子市職員の方々にお礼を述べたい。(文責:田口俊夫)
Akira Tamura's last book was "Citizen's Government" (Seikatsu-sha 2006). For Tamura, an urban planner who tried to think and practice city planning from a citizen-centred perspective, the question of how to define "citizens" and how to position them as actors with whom to act continued to occupy his thoughts after his time in the Planning and Coordination Bureau of Yokohama City (1968/1978). After retiring from Yokohama City (1981), he was asked by the mayor of Zushi, Kiichiro Tomino, to lead a series of meetings between 1986 and 1993 to discuss about the future of the city apart from the issue of Ikeko American Navy Housing. 44 meetings were held. A group of volunteers from Akira Tamura-Memorial A Town Planning Research Initiative NPO hypothesised that the records of these discussions might provide a glimpse into Tamura's vision of what it meant to be a citizen. This was the starting point of our research activities. Later, with the Covid-19 pandemic and in due course the restriction of freedom of movement, the research seemed to have come to a halt, but we decided to compile the records so far. Lastly, we would like to thank the staff of the city of Zushi for making the records of this meeting available to us. (by Toshio Taguchi)
田村明の「縦軸」と「横軸」
田村明・「市民の政府」論の先行研究における位置付けについての雑感
担当:青木淳弘
さしあたり「田村明のライフヒストリー」を縦軸とする。そして制度や社会資本の動向などを含む社会背景を横軸として考えてみたい。
既往の研究を見てみると、この縦軸に注目してきたものが多いように思われる。例えば鈴木(2016)の『今、田村明を読む』は、時系列で田村の足跡をたどるというものである。都市計画「史」という立場からすれば確かにこのアプローチは正しいが、田村を「飛鳥田革新市政における都市計画家」として限定的に捉える傾向もある(これは地域社会学等においても同じ傾向である)。しかしここで考えておかなければならないのは、それぞれの自治体において、おそらく抱えている都市問題は異なるということである。
革新自治体の時代(1960~70年代)にはおそらく公害や社会資本の不足という問題が強くあったはずだし、それ以降になれば、都市アメニティの向上(環境アセスメントとの関連)や地域活性といった問題に対処しなければならなかったことが想定される。この点を考慮すると、都市プランナーに求められるのは、都市地域の実情に柔軟に対応した都市計画とその運用のあり方を提案することにあると推測できる。そこで問題となるのは、都市プランナーの立場性である。既往の研究においては、横軸にあたる社会背景(特にどのような都市問題とそれに対応する都市政策が求められたのか)を合わせて論じていないために、議論が唐突な印象を受ける。問いを少し変えてみるならば、なぜ(官庁型都市計画家ではなく)田村明のような都市プランナーが日本の自治体に求められたのか、ということに答えを出せていない。
都市計画技術の「専門化過程」についての考察を行う植田剛史の一連の研究を参照すれば、1950年代の住宅難という社会的な要請の中から「都市計画コンサルタント」が登場したことと、今日の都市計画技術の「専門/非専門」の境界線が曖昧であることが指摘されている。そして1980年代のフォーディズム型世界経済の衰退に連動したNPM導入以降、世界各国でも同様の都市計画(を含む都市政策の策定プロセス)における「専門性」は、よくも悪くも今でも曖昧である(Forrest and Wissink 2017)。結果的に誰が都市計画の「ゲートキーパー」になるのかという議論は今もって重要な問いといえるだろう。
逗子市の審議会資料が導き出すひとつめの意義は、この「誰がゲートキーパーとなるのか」ということを考える上での重要な参考資料となるだろうということにある。したがって理論的な背景として、この都市政策についての「専門/非専門」の界面がどのようなものなのか明らかにするということの意義を先行研究に対して主張できるかもしれない。
ふたつめの意義として、「都市計画の専門性」という問題形に加えて、渡辺俊一(2001)などが論文化している1980年の地区計画制度の導入に端を発する「参加型」まちづくりの活発化(それがうまくいっているのかはともかくとして)と、それに伴う各地域での審議会の設置という視点も見逃せない。なおこの「参加」ということについては、革新自治体の経験においても重要な要素であることはいうまでもない。
これらふたつの意義から考えて、以下のような課題を掲げることができる。
1.専門家論(Andrew Abbott, Raymond Pahlなど)を批判的に読み、理解し、現代日本における都市計画の「ゲートキーパー」の役割について考える。
→こうした観点から逗子市の事例を検討し、都市プランナーの役割を論じる。特に富野市長との関係性、市職員による学習プロセスなどをこの検討に加えることで日本における「専門/非専門」の界面の不確定性が明らかになるかもしれない。また当然長島さんの著作もこの検討には欠かせない。
2.都市計画における「参加」と「審議会」
→原田純考や渡辺俊一らの「都市法」に関する議論を適宜参考にしながら、都市計画における「参加」の意義について考える。また革新自治体の終焉(1980年頃)以降の社会背景と合わせて、そもそもは住民運動が強く主張していた「参加」のプロセスはどのように市政運営や政策形成に取り入れられていった(いかなかった)のかについて検討する。ここで参考になるのが、①都市社会学における一連の住民運動の「主体と論理」に関する研究群、②革新自治体とその後に関する事例研究のふたつである。例えば、これらの先行研究群に照らして合わせてみると、横浜市新貨物線問題などはこれまで「強い主体」同士の対立として捉えられてきたようにみられる。しかし主体と革新自治体の複雑な関係性に見通しを与え、お互いの立場が論理をどのように変化させていったのか、という視点からその連関図を描いてみれば、また違った局面が見えてくるはずである。
逗子市まちづくり懇話会における田村明の意図
NPO田村明記念・まちづくり研究会 市民像勉強会用メモとして
2019年7月10日
田口俊夫
田村明がどの程度、この懇話会に「意図」をもって参加していたのかは不明である。懇話会議事録の随所にでてくるように、懇話会は「勝手な話」を市長や職員そして市民を交えてする場で、それが「何か」の役に立つことがあるかもしれない、というものであった。役所を改革するには、田村がそうであったように、その組織内に入り一員として活動しなければ、何も変わらない。組織の外から、コンサルタントとしていくら言っても、その発言は適当に処理されてしまう。この懇話会のような審議会でもそうである。経緯からいって、逗子在住の建築家長島孝一氏から頼まれて懇話会の座長を務めた田村は、懇話会の委員や行政職員そして一部市民に、「懇話会の運営の姿」を見せることで、彼ら彼女らに気づきを与えることに期待したのかもしれない。
しかし、田村明と、池子反対派市民団体を母体に1984年11月当選した富野暉一郎市長との信頼関係が構築されていくには時間がかかっている。1986年10月に始まって1989年2月で予算がつかないため中断するまで、実に勝手な話を、意味があるのか少々不安になる展開でされている。再開した1990年4月以降は、富野市長も市議会多数派を占め自信を取り戻している。それ以降は逗子のまちづくりに本当に関係があることが真剣に議論されている、といえる。
ただし、1990年後半の田村の英国サバティカルでの長期欠席や、結構重要な展開になってきた1992年中旬の欠席など、富野市長が本気になってきた時期に重なって田村の欠席が目立つ。富野市長は「当初の公約通り」2期8年を務めて1992年11月退任し、再び池子反対運動市民派として活動する。同じ市民派として市会議員となっていた澤光代氏が市長となり、結果として国と和解してわずか2年で1994年11月市長職を去る。田村と澤市長とは、わずか2回の懇話会での接触となった。
田村は、まちづくりに関して素人である富野市長に「自治体とまちづくりの仕組み」について理解させるのに腐心していた、とみる。自治体運営とまちづくりの実践家である田村からすると、空理空論を言っていても意味がなく、信念をもち創意工夫して実践するかである。逗子市には、その方面に長けたスタッフは限られている、市職員たちも学ぶ必要があった。それに答えたかどうかは、その後も逗子のまちづくりに拘った長島孝一氏の著書を読み解くしかない。
逗子の懇話会を総括すると、富野市長に対する「自治体とまちづくりの仕組み」のレクチャーの場であった、と考える。ただ一方、当時東大農学部助教授であった武内和彦(現、公益財団法人地球環境戦略研究機関理事長)が、まったく斬新な「逗子市の良好な都市環境をつくる条例(1992年6月制定)」で詳細な環境影響評価システムを構築し、それに基づく開発コントロール手法を運用開始したことは特筆に値する。武内も田村の助言を多としている。人材は育ったといえる。長島孝一も逗子で市長選に立候補し落選しながらも、まちづくりを継続していく姿に脱帽する。
逗子市市政 略年表 2019年7月10日
関根
年 |
逗子市のできごと |
逗子市長 |
世界・日本 |
備考 |
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1880 |
89 |
市町村制施行により逗子村など合併し三浦郡田越村発足。官設鉄道(後の横須賀線)開通、逗子駅開設 |
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1910 |
13 |
田越村が町制施行、逗子町と改称 |
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1930 |
30 |
湘南電気鉄道(後の京浜急行電鉄)逗子線開業、湘南逗子駅(後の新逗子駅)開設 |
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38 |
帝国海軍倉庫設置。後に弾薬庫となる |
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1940 |
42
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横浜市金沢区側は毒ガス弾製造工場に |
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41~45太平洋戦争 |
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43 |
逗子町、横須賀市に吸収 |
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45 |
米陸軍に弾薬庫として接収 |
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47 |
弾薬庫大爆発 |
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1950 |
50 |
逗子町、横須賀市から分離独立 |
山田俊介(54.4~69.7) |
52サンフランシスコ条約、日米安保条約 |
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52 |
安保条約による基地提供へ |
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54 |
逗子市となる |
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58 |
披露山公園開場 |
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1960 |
65 |
TBS興産、披露山庭園住宅開発開始 |
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69 |
小坪湾(逗子マリーナ)埋立工事開始 |
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1970 |
70 |
逗子弾薬庫、米陸軍から米海軍に移管 |
高橋鯛蔵(69.8~73.8) |
62~75ヴェトナム戦争 |
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72 |
弾薬庫一部返還 |
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78 |
弾薬庫閉鎖 |
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1980 |
83 |
防衛施設庁、米軍住宅建設を正式発表。約10年、逗子市を二分する大問題となる |
三島虎好(73.8~84.10)
富野暉一郎(84.11~92.11) |
86~91バブル経済 |
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84 |
受入れ表明の三島虎好市長辞任、受入れ容認派が多数の市議会リコール解散。富野暉一郎市長当選 |
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86 |
富野市長リコール不成立 |
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87 |
富野市長、市議会と対立、辞職 |
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89 |
富野市長、仮設調整池工事続行禁止請求訴訟(93年最高裁上告棄却) |
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1990 |
93 |
米軍住宅本体工事着工 |
澤光代(92.11~94.11) 平井義男(94.12~98.12) |
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*政府は664億円支出 |
94 |
澤市長、防衛施設庁・県・市の三者合意受入れ、辞任 |
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96 |
米軍住宅一部完成、入居開始 |
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98 |
米軍住宅854戸全体完成、小学校新設 |
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2000 |
00 |
古都保存法の指定都市となる |
長島一由(9812~06.12) 平井竜一(06.12~18.12) |
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*横浜市側追加住宅が完成すると根岸住宅地区が返還の見込み |
02 |
まちづくり条例施行 |
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03 |
横浜市側に住宅建設計画浮上、横浜市は修正を条件に受入れ |
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04 |
逗子市、追加建設は94年合意に反すると国を提訴(07年、逗子市上告断念) |
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06 |
景観条例施行 |
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2010 |
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桐ケ谷覚(18.12~) |
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逗子市まちづくり懇話会 議事録
まちづくり懇話会における田村明の市民像
長島孝一氏インタビュー Interview with Koichi Nagashima
NPO 田村明「市民」勉強会メモ 2019年7月29日
関根龍太郎
*「田村明 「市民の政府」への道 後編」(2020年3月予定)に向けて、逗子市まちづくり懇談会の議事録(1986年10月~1993年3月)を読む
1.議事録から読み取れる、田村明の言動
① 懇談会の位置づけをよりよいものにするための枠組み設定の努力(他の委員会で議論されていることの情報共有、など)をしている
② 市民の委員の積極的な発言を促し(「素人だからといって遠慮することはない」)、市民の委員の意見に耳を傾けている。
2.議事録から読み取れる、田村明の「市民」の位置づけ
① 行政の計画や方針の策定段階から「市民」に参画してもらいたいという富野市長の考え方に賛同している
② 「市民」の意見は、「市民」が日々の生活や活動の中で気がついたことで、それを行政に伝えることはいいことである。「専門家」といえども、その分野の「専門家」にすぎないから、「市民」が気がついたことと「専門家」が気がついたことは、本質的に等価である(「専門家」も「市民」の一人である)
③ 「市民」の意見は、そのまま政策や計画になるとは限らない。逗子市には逗子市の課題があり、財政的制約や実施能力、政策実現による効果、などを勘案して、もっともよい政策や計画がつくられ、実行されなければならない。その過程で、「市民」の意見は検討の材料となる
④ ③のプロセスが大切で、その現場に「市民」が参画してもいいが、しない場合は、「市民」が納得できる説明をする必要がある(行政の透明性)。また、そのプロセスにおいて、行政の組織の縦割りによる制約にならないよう努力する必要がある(行政の総合性)
3.以上から読み取れる、田村明の「市民」と「「市民の政府」論」
① 田村明は、『現代都市読本』(1994年)で、「市民」を「自らも、その地域を作り運営することに参画し、責任も持とうとする人々」「自立した意見をもちながらも、相違のある他人を認め、相違を越えていかに共同体を作り運営できるかを心掛けている人々」といっている
② 田村明が思い描いている「市民」とは、ジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』を認め、そうした社会規範に基づき行動する人のことである、と考えられる。ルソーは、この本で、自ら主張するが自らの主張を一旦放棄して共同体の「一般意志(Volonté générale)」に従う、ということをいっている。田村が『現代都市読本』の「自立した…」でいっている内容は、ルソーのこの考え方を田村流に平易にいいかえたものと解釈できる
③ 上に書いた2.③のプロセスが正しく行なわれることが、田村明が考えた「市民の政府」であると考えられる
④ 田村明は、市民をそう定義づけたが 、それ以上、「市民」とは何かという議論をすることに時間をかけず、自らはその考え方を行政に実現するための方法を「「市民の政府」論」という形で表現したのだと思われる
まちづくりの時代の田村明
2019年7月29日
奥津憲聖
1 「まちづくり」とは何か
定義:まちづくりとは、地域社会に存在する資源を基礎として、多様な主体が連携・協力して、身近な居住環境を漸進的に改善し、まちの活力と魅力を高め、「生活の質の向上」を実現するための一連の持続的な活動である。
10の原則
1) 公共の福祉の原則…基礎的・文化的な生活のための条件を整える
2) 地域性の原則…固有の地域資源と潜在力を生かして進める
3) ボトムアップの原則…地域社会の住民と市民の発想を元に下からの活動を積み上げる
4) 場所の文脈の原則…歴史・文化の集積としての「場所の文脈」の延長としてデザインする
5) 多主体による協働の原則…個人・各組織が自立しつつ、補完し合い、連携・協働して活動する
6) 持続可能性、地域内循環の原則…一挙に特定の目的を達成するのではなく、漸進的に進める
7) 相互編集の原則…目標とする将来像が事前確定的でなく、個々の活動が整合的に組み立てられる
8) 個の啓発と創発性の原則…住民一人ひとり、個々の組織の個性と発想が生かされる
9) 環境共生の原則…自然・生態学的環境の仕組みに適合し、物的環境を維持発展させる
10) グローカルの原則…地域性に立脚しながらも、常に地球的な視野で構想する
(日本建築学会 2004)
2 田村の横浜での実践は「まちづくり」か?
2-1 六大事業は市民参加のまちづくりではない
「田村の著作には『シビルミニマム』や『コミュニティ』という言葉が全くといっていいほど登場しないように、住民生活に密着した環境整備に対する彼自身の関心や問題意識は著しく希薄だった。」
「田村のいう『都市づくり』や「まちづくり」は基本的に大プロジェクト方式で進められた横浜の都市改造事業の別名であって、当時の「まちづくり運動」が提起していたコンセプトとはまったく無関係だったのである。」
「横浜市の六大事業は『まちづくりの胎動』というよりはむしろ『遅れてきた都市改造事業』としての性格を色濃く持つものであり、それは飛鳥田市政が登場する前の平沼市政における『横浜国際港都建設総合基幹計画』(1957年)の系譜に連なるハードな都市大改造計画に他ならなかった。」(広原 2011)
「一つ鳴海の反省がある。それは6大事業の構想をつくる過程で、飛鳥田市長が掲げた市民参加ができなかったことである。市民参加なしで構想をわずか1年半でつくった。むしろ、計画への市民参加なしだからこそできたといえるのかもしれない。
普通の行政手続きによる単純な市民参加の方法では、こういう構想はできなかったのではないかとも思う。そういう意味では横浜市の6大事業計画は、横浜の戦後の復興の遅れと、高度成長のなかで急激に都市化が進行した時代ゆえに要請・許容された計画で、非常に特殊な例ともいえるかもしれない。」(鳴海 2010)
2-2 田村の著作のタイトルから
◆横浜市在籍時
・『都市を計画する』1977年、岩波書店
・SD別冊No.11『横浜=都市計画の実践的手法 その都市づくりのあゆみ』1978年
(→昭和52年度日本建築学会業績部門学会賞「横浜市における都市計画活動―都市空間創造への総合的実践」 田村明「実践的都市計画論」)
・『環境計画論』1980年、鹿島出版会
◆横浜市退職後
・『都市ヨコハマをつくる 実践的まちづくり手法』1983年、中公新書
・『まちづくりの発想』1987年、岩波新書
・『江戸東京まちづくり物語』1992年、時事通信社
・『まちづくりの実践』1999年、岩波新書
・『まちづくりと景観』2005年、岩波新書
横浜市在籍時は自身の実践を「都市計画」として考えている。
横浜市退職後「まちづくり」について研究・教育・啓蒙活動を行うなかで、自らの実践を
「まちづくり」という観点から捉え返した。(→その結果「市民の政府」論が誕生する?)
3 逗子市まちづくり懇話会
◆横浜市の時とは異なる進め方で
「こういう行政の中で総合的な調整をどうやるのかというのが一番苦労しているものですね。それなりに苦心したと思いますよ。それはやっぱり横浜みたいな350万都市でね、やるのと逗子のまちとは、やり方はそれぞれ違うと思いますよ。そのまちの個性がありますから。私がやったのだけが一番いいとも思わないし、その状況の中でも、でもやればやれるんですよ。」(議事録31 1991/4/9 p16)
◆市民参加の必要性
⇒別紙「田村明の「市民」に関わる発言」参照
◆グランドデザインを実際に策定したのは若い世代
田村明(1926年生まれ)
林泰義(1936年生まれ、計画技術研究所、グランドデザイン研究会事務局)
長島孝一(1936年生まれ、グランドデザイン研究会副会長)
小林重敬(1942年生まれ、グランドデザイン研究会会長)
武内和彦(1951年生まれ、グランドデザイン研究会委員)
1970年代の「実践的都市計画」から1980・90年代の「住民参加型まちづくり」への橋渡し
<参考文献>
日本建築学会編『まちづくり教科書1 まちづくりの方法』2004年 丸善
広原盛明『日本型コミュニティ政策―東京・横浜・武蔵野の経験』2011年 晃洋書房
鳴海正泰「飛鳥田市長の6大事業のまちづくりの立案過程」『自治研かながわ月報』123号 2010年
「参加」と「まちづくり」の媒介者としての都市プランナー
––逗子池子米軍住宅反対運動を事例に考える––
青木淳弘
日本において都市計画は、法学的あるいは工学的な知識を都市空間へと適応するという「技術」として捉えられてきた。しかし近年の都市空間の編成においては、しばしば「多様な専門知識や技術の利用を公共領域での行動へと結びつけていく」(Friedmann 1987, 48)必要性がますます唱えられるようになってきている。すなわち都市計画を従来のように「技術」としてはなく、都市空間改変のプロセスへの「参加」として考えなければならない時代が到来していると言えるだろう。田村明の言うまちづくりは、「自治体や公的機関、民間企業、市民などによってばらばらに行なわれてきたものを明確な目標の下に結集させ、「まち」が主体となって総合性を発揮しようという考え」(田村 1987, 140)のことである。近年の動向を踏まえてみても、この考えが重要であることは言うまでもない。
しかしここで注意しなければならないのは、その「参加」において、必ずしもアクターの間で専門知識や技術が平等に与えられているとは限らないことである。その結果、ディベロッパーなどの有力な資本の権力によって「空間が商品化」(似田貝 1977)されるという批判がこれまでも寄せられてきた。ここでは明らかに専門家と非専門家の間の格差が生まれている。そこでこの格差を埋め合わせていく「媒介者」が求められる。ここではこの「媒介者」の役割を担うアクターを広く「都市プランナー」として捉えたい。
逗子市の「まちづくり懇話会」は、池子米軍住宅反対運動を受けた富野市長の下で開かれたが、まさしくこの「媒介的な機能」を期待されていたと考えられる。基本的には懇話会記録を丁寧に追いながら、都市プランナーの求められる役割とその後の政策を、社会背景と照らし合わせながら検討したい。そのための作業として、⑴「逗子市まちづくり条例」の内容およびその制定プロセスの検討、⑵まちづくり懇話会の記録やその形式と、⑴の検討結果の照合を行いたい。ここではどのようなアクターが、どのような役割を求められ、どのような政策へと結びついたか(結びつかなかったか)を検討したい。8月中になるべくこの検討を進め、全体で議論した上で、9月2日の長島さんへのインタビュー項目をまとめたい。
<文献>
Friedmann, J., 1987, Planning in the Public Domain: Knowledge to Action, Princeton University Press.
似田貝香門, 1977, 「住民運動の理論的課題と展望」松原治郎・似田貝香門編『住民運動の論理––––運動の展開過程・課題と展望』学陽書房, 331-96.
田村明, 1987, 『まちづくりの発想』岩波書店.